帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ㉒「紡績業」(調査書P115~116)「佐賀紡績株式会社」(調査書P117~123)をご紹介します。

2025.9.30.

「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの22回目です。

t10gorosagabosekiseimon.png調査書の「紡績業」では、鈴木商店の紡績業への進出について次のように記されています。

「鈴木商店は第一次世界大戦勃発以来、多くの新事業の画策を怠らず、これによって戦時利益の獲得を図るとともに、困難を乗り越えて平和に戻った後の土台となる事業の確立に余念がない様子であるが、‥‥未だ紡績業に対しては自家経営は勿論のこと、密接な関係を有する既設会社さえも無い状態であり、事業好みの同店としては大きな遺憾の念を抱いていたが、紡績業の大戦時の利益が益々多大であることと、戦後もまた非常に期待すべき理由があることから、昨年佐賀紡績の創立に際し約半数の株式を引受け、完全に実権を掌握したけれども、佐賀紡績だけでは満足することができず、内密に既設会社に着目しつつある折、たまたま天満織物が資本金200万円を一気に500万円に増加すべき既定方針の下に‥‥」(上の写真は、大正10年頃の佐賀紡績正門です)

P1060315.JPG大正5(1916)年12月、佐賀紡績は地元の有志によって設立されました。
佐賀ではそれ以前から紡績会社設立の機運が高まっていましたが、資本、生産設備の調達、工場の設計・運営、販路等の面で実現せず、地元有力者から同社設立計画への参画を要請された鈴木商店に依存する形でようやく計画が実現しました。(左の写真は、現在の佐賀紡績工場跡地で、佐賀市所有の公園「どんどんどんの森」として市民に親しまれています)

佐賀紡績の株式の募集は古賀、佐賀百六、(えい)の地元の3銀行が中心となって進められましたが、さらなる株式の募集や信用の確保、困難を極めた紡績機械の調達などのため、鈴木商店の関与は大いに歓迎されました。

大正5(1916)年12月、佐賀~久留米両市間の最短交通機関を設置する目的で、肥筑軌道が設立されましたが、同社も佐賀紡績の場合と同様に地元有力者が発起人となり、鈴木商店の参画を得て計画が実現したこともあって佐賀紡績の株式募集等は順調に進みました。

nopgutisityou.png佐賀紡績開業時の役員は次の通りです。
取締役社長 橋本喜造(長崎県出身、鈴木商店と接点のある政財界の実力者)、専務取締役 井田亦吉(鈴木商店)、取締役 土屋新兵衛(鈴木商店)、竹村房吉(鈴木商店)、伊丹彦次郎(えい銀行の関係者)、福田慶四郎(佐賀百六銀行頭取等、佐賀財界の実力者)、古賀製次郎(炭鉱経営者)、原眞一(長崎県上五島出身の実業家)、川副綱隆(佐賀県出身、政財界の実力者)、監査役 森衆郎(鈴木商店)、吉岡卯八(地元出身者)、副島延一(地元出身者)、支配人 波多野恕吉(鈴木商店)相談役 金子直吉、野口よし(佐賀市長、左の写真)

工場は佐賀市街を東西に走る通称 "貫通道路"の西部に位置し、当時の敷地面積は2万6,000坪余りでした。大正7(1918)年に工場の開業式が開催され、当初の計画では2万(すい)の紡績機、織機300台を予定していましたが、紡績機を運んでいた船がドイツの潜水艦に撃沈されたため、鈴木商店がインドからイギリス製の中古紡績機7,000錘を入手し、その一部が入荷したことでようやく操業開始に至りました。

s63toujinodaiwabousekisagakoujyou.pngその後、同社は鋭意設備の増強を進め、大正9(1920)年半ばには紡績機3万2,200余錘、撚糸(ねんし)機6,400余錘、織機400余台、生産能力は年間、織布原糸5,500(こり)、粗布816万ヤード、綿糸41番手6,240梱を数えました。大正13(1924)年当時の従業員数は男子職工324名、女子職工1,137名、事務員等約100名を擁する大工場でした。

しかし、同社は第一次世界大戦終結に伴う反動不況の長期化により大正13(1924)年に工場閉鎖を余儀なくされ、鈴木商店の経営破綻も相俟って昭和3(1928)年4月に武藤(さん)()率いる鐘淵紡績系の錦華紡績に買収されました。

さらに、昭和16(1941)年には錦華紡績に日出紡織、出雲製織、和歌山紡織を加えた中堅紡績4社の合併により大和紡績が設立され、錦華紡績佐賀工場は大和紡績佐賀工場となりました。(上の写真は、昭和63年当時の大和紡績佐賀工場 [旧・佐賀紡績工場] です)

調査書の「会社の沿革及現況」には、次のように記されています。

「同社は佐賀市の一部有志の発起により、市長・野口よし氏は発起人を代表して度々阪神間を往来し、‥‥それ以来数回にわたる集会を経てようやく古賀、佐賀百六、えいの三銀行で株式募集を引受けることになったが、その後この銀行団の斡旋が誠意を欠き、何ら具体的な進行の経過を示さず、せっかく盛り上がった人気も落ち着いてしまった。」

「しかし、最近九州の各種事業に着目してきた鈴木商店は同社の前途有望なことに着目し、以前から船成金と称されている橋本喜造氏とともに同社株式の大部分の引受けを申し込んで来たので、気勢は急に盛り上がり、鈴木商店西部監督の土屋新兵衛氏および井田亦吉氏らが同地(佐賀市)に出張し、数回の会合をを経て、‥‥ここに鈴木商店の後援を受けることとなったが、その後打合せはいよいよ進展し、‥‥」

「そうして、製品の販売および原料の仕入等は当初鈴木商店との契約に基づき、全部同店で引き受けることとなったので、同社はかなり安全な立場となった。要するに、同社は鈴木商店と佐賀の実業家との共同事業であるが、ある意味においては鈴木商店の間接事業とも見ることができ、同社がすでに7千錘の機械を保有し、近く事業を開始することとなったことは同業者がこぞってその素早さに驚嘆するところである。」

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