帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ㉕「沖見初炭坑株式会社」(調査書P136~140)をご紹介します。
2026.1.10.
「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの25回目です。
以下の記述は、大正14(1925)年に苦境に陥っていた鈴木商店が経営する沖見初炭鉱(沖見初炭坑に同じ)の専務取締役に就任し、同炭鉱の立て直しおよび事業の整理に従事した金子三次郎(金子直吉の弟・楠馬の婿養子)[左の写真] の回顧録「随心録」等の記述を参考に、鈴木商店の炭鉱事業への取組みおよび沖見初炭鉱の概要についてまとめたものです。
本シリーズの初回でもご紹介しましたとおり、鈴木商店は明治35(1902)年に個人商店から合名会社へと組織変更を行い、以後同社は取扱商品を急拡大するとともに生産部門(製造業)にも積極的に進出し、事業の多角化を進めました。第一次世界大戦勃発に際しては大戦特需を享受すべく、調査書にも「直接、間接及関係会社等の数は実に六十有余に達し‥‥」と記されているように急速に事業を拡大しました。
ただ、炭鉱を含む鉱山事業のみは、不安定要素が多いことから大正の初頭まで参入を見送っていました。しかし、鉱物資源およびエネルギー資源は産業界の主要な分野を占める事業であり、かつ鈴木商店の関係会社で使用する石炭だけでも年間数10万トンに達していたこと、また銅、亜鉛、硫化鉄など自家使用原料の必要性を認めたことから、鉱山部を設置して開発を行うことになりました。
大正2(1913)年頃、関門・若松地方が石炭市場の中心であったこと、また鈴木商店下関支店長の西岡貞太郎が石炭の将来性に希望を抱いていたことから、同社の下関支店に初めて石炭部が設けられました。鈴木商店の他の全ての事業展開については神戸本店から発令されていましたが、石炭に関する生産・販売の計画立案は下関支店石炭部が担いました。
大正8(1919)年、鈴木商店下関支店石炭部の活動を引き継ぎ、さらに発展させる形で同支店内に帝国炭業(株)が設立され、九州・筑豊を中心に神ノ浦炭鉱、福岡炭鉱、木屋瀬炭鉱、起業小松炭鉱、鴻之巣炭鉱、御徳炭鉱、上山田炭鉱、咸鏡炭鉱(朝鮮)等を次々に経営し、業容を拡大していきました。
沖見初炭鉱は山口県宇部市の宇部炭田(宇部の海岸から沖合に伸びる海底炭田)に位置していました。西側には同炭田の出炭量2位の東見初炭鉱(社長:藤本閑作)と同1位の沖ノ山炭鉱(頭取・渡辺祐策)が操業していました。
沖見初炭鉱株式会社は地元の藤井保らが鉱区を提供し、鈴木商店が開発費を現金出資する形で大正5(1916)年に設立されました。
設立2年後の役員は、社長 西岡貞太郎(鈴木商店下関支店長)、専務取締役 石田亀一(同支店石炭部主任)、常務取締役 藤井保、荻野休次郎、宅野潔でした。(左の写真は大正12年頃の沖見初炭鉱の様子です。画像提供:宇部市)
同炭鉱の鉱区は海面下で400万坪超と広く、陸上から海底に向って主要坑道を堀り進み、高品質で有名な五段層を採掘する計画でしたが、途中主要坑道が蛇紋岩の断層に行き当ったため、これを貫通するのに約2年を要しました。
これにより、第一次世界大戦勃発に伴う大正7(1918)年~8(1919)年の石炭好況期に巡り合いながらも、肝心の出炭にまで至りませんでした。
その後、種々苦心の結果ようやく出炭出来るようになりましたが、今度は大戦終結に伴う石炭価格の反動下落により海底採炭の困難も相まって常に収支が合わず、毎月5万円から10万円の赤字が続き、その結果借入金が激増し、払込資本金200万円に対し借入金が500万円にも達しました。(右の写真は、大正15年頃の沖見初炭鉱です。画像提供:宇部市)
このため、当時の主要役員は辞職し、社長に鈴木商店から(二代目)鈴木岩治郎を迎えて帝国炭業本社の販売課長であった金子三次郎が前記西岡貞太郎の要請を受け専務取締役として現地に赴き、同炭鉱の立て直しおよび事業の整理に従事しました。
沖見初炭鉱は本坑道の正面に西隣の東見初炭鉱の鉱区が突出しており、設立当初からこれを突破することが困難という問題を抱えていました。
そこで、専務の金子三次郎はこの問題を解決すべく東見初炭鉱社長の藤本閑作と幾度も面談し、突出している同炭鉱の鉱区を買収するか、鉱区通過を認めてもらうよう交渉し、両炭鉱の鉱区同士の交換、さらには共同経営案まで提示するも、全て不調に終わり実現には至りませんでした。(左の写真は、沖見初炭鉱の炭鉱住宅です。画像提供:宇部市)
そんな最中、沖見初炭鉱と東見初炭鉱の合併の話が地方新聞に掲載され、この記事を見た九州の久恒鉱業から沖見初炭鉱の抵当権者であった台湾銀行に沖見初炭鉱買収の申込みがありました。しかし、金子三次郎は "単独で東見初炭鉱以外の者に売却するならば、多額の借金を抱えている中では600万円下回ることは出来ない" と金額面で折り合わず断わりました。
その後、大倉喜八郎率いる大倉鉱業から台湾銀行に沖見初炭鉱買収の申込みがあり、他社からも買収申込があったため入札が行われた結果昭和2(1927)年、大倉鉱業による落札が決定しました。同年、鈴木商店は昭和金融恐慌の最中に経営破綻します。
しかし、その後も沖見初炭鉱の採炭条件は改善されることなく出炭量は伸びず、大倉鉱業による同炭鉱の経営は行き詰まりつつありました。
この状況を憂慮した渡辺祐策(宇部興産 [現・UBE] の前身・沖ノ山炭鉱組合の創業者で、宇部興産の基礎を確立)を中心とする地元・宇部市の財界は東見初炭鉱による沖見初炭鉱の買収を提案し、紆余曲折を経て昭和6(1931)年、この買収が実現しました。その後、昭和19(1944)年に東見初炭鉱は宇部興産に吸収合併されました。
調査書の「沿革及現状」には次のように記されています。
「同社(沖見初炭鉱)の鉱区は山口県下宇部半島の一角に位置し、数年前より現常務藤井氏の所有鉱区であったが、石炭業界不振のため採掘までには至らず、放棄状態であったものを鈴木商店に買収され、同店関係者名義の下に資本金50万円の株式会社に組織し、同鉱区を14万6千余円で継承したものであり、目下起業中に属する。」
「元来同鉱区は宇部半島沿岸の海底にあり、総面積は407万1千余坪と説明され、採掘設計は水底70尺を掘り下げ、本坑二道、斜坑四道(何れも三尺層)を掘削してこれを主坑とし、別に二道の副坑を作り、主坑の一日採炭量は2千トンから2千5百トンの予定で、主坑、副坑ともに明大正7年9月頃より採掘できるであろう。仕向先は京阪地方、その他内地用に供給する目的であるが、炭質はやや劣等品であるものの出炭量の豊富、採掘費の低廉、搬出の利便など有利な条件を備えているので、採算上十分に年5、6割の配当を行うことができると確信を持っている。」

