帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ㉔「東洋製糖株式会社」(調査書P128~136)をご紹介します。
2025.11.24.
「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの24回目です。
鈴木商店の製糖事業は門司市に隣接する福岡県企救郡柳ヶ浦村大字大里(後・大里町)から始まりました。
明治35(1902)年、後藤新平から台湾北部の基隆港の活性化策について相談を受けた金子直吉は同港での製糖工場建設を提案しましたが、後藤が議会で鈴木商店との関係を問題視されたため、金子は安価な石炭、良質な淡水、輸送面の至便さを兼ね備えた大里に製糖工場を建設することを決定し翌明治36(1903)年、鈴木商店はカネ辰・藤田商店との共同出資により、後に鈴木商店の飛躍の基礎を作ることになる大里製糖所を設立しました。(左の画像は、当時の大里製糖所です)
その後、鈴木商店は明治40(1907)年以降、台湾南部の塩水港庁岸内庄(現・台南県)の塩水港精製糖に出資し、明治43(1910)年には台湾・嘉義庁北港街に北港工場と月眉工場からなる北港製糖を設立しました。
その後は既存製糖会社への出資・買収により台湾における製糖事業を拡大していきました。(右の写真は、かつての北港製糖月眉工場 [現・台糖月眉観光糖廠]です)
東洋製糖は明治40(1907)年に設立され、嘉義廳南靖庄、烏樹林に工場を建設しましたが、鈴木商店は明治45(1912)年頃までに同社の株式の過半数を取得し、金子直吉と旧知の元台湾銀行副頭取・下坂藤太郎を始め藤田謙一、岡烈、桂二郎らを役員として派遣し、同社の経営を支配しました。
さらに、東洋製糖は大正3(1914)年8月に斗六製糖と合併し、翌大正4(1915)年5月には前記の同じ鈴木商店傘下の北港製糖と合併し、一気に規模を拡大しました。
これにより、東洋製糖は南靖、烏樹林、北港、月眉、斗六、烏日の6工場を有する台湾製糖、明治製糖と並ぶ大製糖会社となり、鈴木商店は東洋製糖の一手販売権を獲得しました。
ここに、出資・買収により事業を拡大して行く鈴木商店の戦略が奏功し、同店は台湾製糖業界において確固たる地位を築きました。(上の写真は、東洋製糖南靖工場です)
東洋製糖の大正6(1917)年当時の役員は次の通りでした。
社長 下坂藤太郎(鈴木)、専務取締役 松方三郎、常務取締役 日向利兵衛(鈴木)、取締役 藤田謙一、(鈴木)、小松楠彌(鈴木)、石川昌次、松方正熊、田村藤四郎
さらに大正5(1916)年、東洋製糖は大東諸島で製糖工場を経営していた玉置商会の事業を引き継ぎ、南大東島で製糖事業を、北大東島で燐鉱石採掘事業を展開し軌道に乗せました。
しかし、鈴木商店が昭和2(1927)年4月に経営破綻すると東洋製糖は同年7月、大日本製糖(現・DM三井製糖)に合併されその歴史に幕を下ろしました。
調査書の「沿革及現状」等には、次にように記されています。
「同社(東洋製糖)は日露戦争後の事業の勃興時代に、元社長徳久恒ほか数名の発起により台湾において砂糖の製造販売、甘蔗の栽培・購入およびこれに付随する事業を営み、かつ本社専属の鉄道により運輸業を営む目的で明治40年2月に設立したものである。」
「明治45年7月、現社長下坂藤太郎が就任し、経営の首脳者となることにより更に発展し大正3年8月、斗六製糖を合併して800万円に増資し大正4年5月、北港および月眉に工場を有する北港製糖を合併して資本金を1,100万円とし5年7月、台湾赤糖会社および沖縄県下大東島の経営者玉置商会より同島の事業一切を買収するとともに、資本金を現在の1,175万円に増資し今日に至る。」(右の写真は、東洋製糖南大東島製糖工場です)
「また、同社の製品は年産額約107万擔であり、原料糖、輸出糖、車糖、分蜜糖を主とし、品質優良の評価がある。販路は原料糖は大日本、明治両製糖会社に供給するほか支那、香港、大連、インド、豪州、米国等に輸出し、消費糖は内地市場へすべて鈴木商店を経て販売している。」
「とにかく、(東洋製糖は)台湾、明治、塩水港製糖会社と対立し、粗糖界の一方の重鎮と称され、業容は年々良好となり、社運は日々良くなり、基礎となる事業はますます堅実となりつつある。」

