辰巳屋恒七(松原恒七)の人となり

辰巳屋二代目・松原恒七は、実父で初代辰巳屋の藤助より暖簾を受け継ぎ事業を拡大、大阪大宝寺町より船場・長堀橋に店を移し、砂糖商としても成功を収めている。

功成り名を遂げた恒七だが、非凡な才能と任侠・世話好きで太っ腹な性格の親分肌 と言われた。大欲も無く、番頭、手代に店を持たせ次々に独立させている。"一代で作った身代はきれいに有用に使う"というのが信条であったという。

また多趣味で、浄瑠璃には殊の外打ち込み「豆藤」の芸名で、お座敷で披露していた。また相撲を愛し大阪相撲時代の小野川(後の第5代横綱で、江戸寛政時代、谷風と並ぶ名横綱と呼ばれた)を贔屓にしていた。

恒七には、正妻・満寿のほかに愛人・はながいたが正妻同様の待遇をし、二家の戸主として振る舞っていた。はなとの間の子・藤松が後の鈴木商店の番頭となる柳田富士松である。恒七は、晩年支店を出した神戸で暮らすことが多く、はなと藤松、ぬいの母子を神戸に呼び寄せた。恒七は、大阪では「松原恒七」、神戸では「辰巳屋常七」と使い分けていた。(柳田富士松伝)

恒七は明治14(1881)年、63歳で生涯を閉じたが、その葬儀には僧侶、神官、相撲取り、仲居、芸妓等々生前の多彩な交遊を偲ばせる多くの人々が参列したといわれる。

また、鈴木家は、初代・岩治郎亡き後も松原家に対して主家への礼を欠かさず、松原家の仏事にはお家さん・よねは必ず馳せ参じ手伝っていた。

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