藤田助七

カネ辰鈴木商店の本家筋大阪辰巳屋ののれんを守る

藤田助七(大正14年当時)

生年 嘉永3(1850)年
没年 大正15(1926)年9月11日 (享年76歳) 

備前(岡山県)玉島生まれ。
大阪・大宝町から船場長堀橋北詰に店を移した「辰巳屋恒七」は、明治初期には、自社の砂糖船を保有するほどに業容を拡大した。

店主・松原恒七が病に倒れ、これを機に引退を決意すると大阪長堀の本店は、女婿の藤田助七が、神戸出張所は、鈴木岩治郎がそれぞれのれん分けで引き継いで、カネ辰藤田商店、カネ辰鈴木商店と称した。両辰巳屋は、同族的な連繋を強め、鈴木商店発展の原動力となった。

居留地商館時代、ジャーディン・マセソン糖を輸入したブラオン商会から買い取ったのが神戸の糖商鈴木岩治郎、大阪の糖商藤田助七他で、両辰巳屋が新興糖商「洋糖引取商」として居留地貿易に登場した。やがて明治22(1889)年には、両辰巳屋他有力引取商5社による販売カルテル「洋糖商会」やその再編組織「丸五組合」が設立された。

両辰巳屋は、香港糖の引取から、台湾糖、マニラ糖、欧州甜菜糖などに手を拡げる。とりわけ鈴木商店がいずれの砂糖においても圧倒的な地位を築いて行く。

両辰巳屋の協調関係は、鈴木岩治郎急逝後、寡婦となったよねが店主として再出発するに際し、実兄の西田仲右衛門とともに藤田助七が後見人として鈴木商店を支えた。

鈴木商店発展の契機となった「大里製糖所」の設立(明治36(1903)年)に際して、鈴木商店が2/3, 大阪辰巳屋(藤田助七)が1/3出資したほか、「浪華倉庫」設立(大正6(1917)年)についても両辰巳屋の事業として進め、社長に藤田助七が、取締役に柳田富士松が就任した。

さらにこの時期、鈴木が系列化した六十五銀行の頭取に藤田助七が就任している。大阪辰巳屋藤田助七は、鈴木商店の多角化を側面から支えていた。鈴木商店と共に歩んだ藤田商店は、鈴木と運命共同体となり、昭和2年(1927)年の鈴木破綻により歴史の舞台から消えた。

藤田家の菩提寺である大阪谷町の薬王寺には、助七の寄進による一対の灯篭が残されている。   

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