鈴木商店の製粉事業への進出①

わが国製粉事業の嚆矢「官営札幌製粉所」に続く「官営札幌製粉場」(札幌製粉の前身)の設立

わが国の製粉業の嚆矢(こうし)は、明治維新政府が近代的諸産業を育成すべく開拓次官、黒田清隆(旧・薩摩藩士、後・農商務相、逓信相、首相)率いる開拓使(後・北海道庁)がアメリカの第2代農務長官、ホーレス・ケプロンを顧問として招き、明治6(1873)年に札幌に設立した「官営札幌製粉所」である。

明治4(1871)年7月、多くの技術者を伴って来日したケプロンは"グリストミル"と呼ばれる石臼製粉機(*)を自国に発注し明治6(1873)年の夏以降、北海道で栽培されたアメリカ種の小麦を原料に、"水車"を動力源にして操業を開始した。

(*)この製粉機の「石臼」は昭和27(1952)年に日本製粉札幌工場内で発見された。その後北海道大学に寄贈され、現在は「北海道大学植物園・博物館」に保存されている。

札幌製粉所の操業は"水車"を動力源としたこと等に起因して失敗に終わるのであるが明治9(1876)年11月、開拓使はわが国最初の"蒸気機関"を動力源とする「官営磨粉機械所」(製粉能力15バーレル)を札幌に設立すると続いて明治18(1885)年9月、開拓使の後身である農商務省北海道事務管理局はやはり"蒸気機関"を動力源とするアメリカ製ロールミル(*)を備えた「官営札幌製粉場」(製粉能力50バーレル)を設立した。

(*)挽砕(ばんさい)という工程において小麦を細かく砕く機械。

当時わが国には東京・浅草の官営製粉所(明治12年設立)、「投機界の魔王」の異名を持つ相場師から実業家へと大転身した雨宮敬次郎が現在の東京都江東区扇橋に設立した製粉所「泰靖社」(明治12年設立)が存在していたがいずれも石臼製粉であり、この官営札幌製粉場がわが国初の本格的な近代的製粉工場であった。

明治19(1886)年に北海道庁が開庁すると官営札幌製粉場は民間に払い下げられ、最終的には札幌の豪商で実業家の後藤半七が所有するところとなり、一時期には輸入「米利堅粉」(メリケン粉)に対抗できる高品質の小麦粉を製造するわが国で唯一の本格的な機械製粉工場として目覚ましい成績をあげた。しかし、その後の後藤の投機的な投資活動が裏目に出るとともに、明治31(1898)年に後藤自身が病死したことにより経営破綻する。

この事態を受け、札幌財界では道内の小麦生産を発展させる上で不可欠な製粉事業を継承するため明治35(1902)年4月、札幌の有力者が発起人となり札幌に「札幌製粉株式会社」を設立した。

札幌製粉は工場の運営を任せる人材として、製粉工業の本場アメリカで技術を磨いた製粉技師、米田龍平を技師長兼支配人として招へいした。米田は明治19(1886)年、19歳で単身渡米すると"Mill City"と称された製粉工業の中心地、ミネアポリスのウルフ社に入社し、持ち前の粘り強さと陽気な性格から「ドラゴン・ヨネダ」と呼ばれる一流の製粉技術者に成長していた。 

常々本場アメリカで習得した製粉技術により日本の製粉事業に貢献したいと考えていた米田は、赴任した札幌製粉において最先端技術を駆使し、高品質の製品を大量に生産できる機械製粉の技術を確立した。

一方、雨宮敬次郎によって設立された製粉所「泰靖社」の経営は、「有限会社日本製粉会社」から「東京製粉合資会社」を経て、明治29(1896)年9月26日にアメリカ製ロールミルを備えたわが国初の近代的製粉企業として設立された「日本製粉株式会社」(現在のニップン)へと継承された。

鈴木商店の製粉事業への進出②

  • 開拓次官・黒田清隆
  • ホーレス・ケプロン
  • 「官営札幌製粉所」の輸入製粉機の「石臼」

    現在「北海道大学植物園・博物館」に保存されている。

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