神戸製鋼所設立の歴史②

田宮嘉右衛門と金子直吉の出会い

神戸製鋼所の実質創業者ともいえる田宮嘉右衛門の出身は、愛媛県新居浜出身。田宮家は別子銅山を経営する住友家に仕えてきた関係もあり、神戸の住友樟脳精製所に勤務するも、2年ほどで退職。住友樟脳は後に鈴木商店が買収することになるが、この時、金子直吉の誘いにより田宮は鈴木商店樟脳工場で働くことになる。田宮は、採用面接のため金子の家を訪れた際、住まいが樟脳工場の中にある二畳と四畳半の小部屋であることを知り、あまりにも質素な邸宅に驚き、清廉・質素さに威圧さえ感じたという。

明治37(1904)年に鈴木商店直営樟脳工場に入社するが、その4か月後に金子は田宮に北九州の大里製糖所への勤務を命ずる。田宮は樟脳の経験があるが故に雇われたと思っていたため、御用済みの前ぶれではと勘違いした。しかし金子いわく、「大里製糖所は店としても多額の資本を投入している。したがって店員の中でも優秀な人間を厳選している。」と田宮に期待をした。当時田宮は30歳、鈴木は若手を積極的に抜擢した。

大里製糖所勤務の翌年の明治38(1905)年、金子が突然工場を訪問しこういった。「神戸の脇浜に小林製鋼所というのが建設中であるが、この方に店から四、五十万円融資している。この製鋼所では事業として相当に困難なものであるから、成功する公算は少ないとみなければならない。したがって融資した金も多分にこげつきになりそうな気がする。しかし製鋼業は国家的な事業でもあるし、むざむざつぶしたくない。そこでいずれ鈴木が背負うことになるかも知れないが、そのときは相当な覚悟をもって臨む人物が必要だ。これを君にやってもらいたいと思っている。」 そして、同年、田宮は金子から神戸製鋼所の支配人に任ぜられる。僅か31歳の若さである。

支配人となった田宮は赤字続きに苦しんだ。田宮はスクラップ価格が高いことに悩み、日露戦争時に日本の旅順封鎖に使用された沈船に目をつけ、鈴木商店が引き揚げ権を獲得。田宮自身も大連に出張したが、コストが合わないと断念。

田宮と金子は一時、工場を閉鎖することも決心した。しかし西洋諸国でも当初は困難はあっても最後には成功している例が多く、この事業を悲観すべきではないと、二人は度胸をすえてかかることを決心した。

  • 田宮嘉右衛門
  • 若き日の田宮嘉右衛門
  • 田宮の転機となった住友樟脳

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