播磨造船所の歴史⑨

今も残る播磨造船所に由来する文化と歴史的建造物

昭和35(1960)年12月1日に播磨造船所と石川島重工業が合併し、「石川島播磨重工業株式会社」(現・株式会社IHI)として再スタートを切った後、新会社の「相生第一工場」(旧・播磨造船所)はわが国高度経済成長期の旺盛な海上輸送需要の伸長と活発な営業活動が相まって業容は拡大を続け、毎朝、町から工場へ向かう途中の「皆勤(かいきん)(ばし)」は自転車の列であふれ、橋の手前の本町通り(現在の「ほんまち商店街」)は横断できないほどであった。

かつて、相生市新町から対岸の播磨造船所本社工場への従業員の通勤は渡船を利用していたが、極めて不便で、特に太平洋戦争勃発後は従業員が増加するに従って渡船の不便は一層増し、朝夕の混雑は想像を絶する状態であった。

戦時中、造船所では2万名を越える人々が働いており、工員を円滑に移動させよという海軍の要請により架橋を断行し昭和18(1943)年6月18日、甲崎の北端と対岸の松の浦とを結ぶ海上距離208メートル余の間に幅7.5メートル、長さ15メートルのポンツーン(箱舟)を10個並べた大桟橋が完成した。桟橋は、この計画の実現に終始尽力した海軍監督官の岸大佐により「皆勤橋」と命名された。

相生第一工場は単独の造船所としては昭和37(1962)年に28万7,713総トンという世界一の進水量に輝くと、続いて38(1963)年、39(1964)年と3年連続して世界一の進水量を達成した。しかし、昭和40年代後半になるとになると昭和48(1973)年の秋に始まった第一次オイルショックに端を発する長期的な造船大不況が始まり、「皆勤橋」を渡る従業員は次第に減少していった。

そして、昭和60(1985)年以降も深刻な造船不況は続き、同年9月22日のいわゆる「プラザ合意」に伴う円高に直撃される形で昭和62(1987)年10月、相生第一工場は新造船からの撤退を余儀なくされ、相生は遂に「造船の町」としての幕を下ろした。これに伴い、利用者が激減した「皆勤橋」も平成14(2002)年2月に撤去され、58年余りにわたる役目を終えた。

平成2(1990)年4月2日、新造船事業から撤退した相生第一工場の造船事業の一部を承継し、分社化により「アイ・エイチ・アイ・アムテック」(IHI AMTEC)が設立された。同社は商船・作業船・海洋浮体構造物の新造、海洋環境船建造、居住区建造、船舶修理、船首ブロック建造、作業船修理・改造・建造等を主業とし、平成25(2013)年1月には親会社の経営統合により「JMUアムテック」へと社名を変更。現在は、「ジャパン マリンユナイテッド」(JMU)の子会社となっている。

石川島播磨重工業の船舶・海洋事業は平成14(2002)年に分社化され、マリンユナイテッド(MU)(平成7(1995)年10月、石川島播磨重工業と住友重機械工業の艦艇部門が統合)と統合の上平成14(2002)10月、「アイ・エイチ・アイマリンユナイテッド」(IHIMU)となる。さらに平成25(2013)年1月、IHIMUはユニバーサル造船(日立造船と日本鋼管の船舶部門が統合)と合併し、「ジャパン マリンユナイテッド」(JMU)となった。

平成19(2007)年7月1日、石川島播磨重工業の本体は「株式会社IHI」に社名変更し、原子力発電用機器、航空機用ジェットエンジン、宇宙関連機器、産業機械、ボイラーなど幅広い分野で事業展開し、今日に至っている。

大正5(1916)年4月に鈴木商店が「播磨造船株式会社」を買収し、「株式会社播磨造船所」として事業を継承して以来、相生は鈴木商店の進取・積極的方針の下での潤沢な投資に支えられ、造船所と共に発展し近代化に成功し、現在もIHIおよび同社の関連企業によるボイラー、LNGタンク、各種パイプユニット、化学プラント用塔槽類、鋳造品など多彩な製造事業は、同市の基幹産業となっている。

なお、大正期に鈴木商店が造船所の従業員社宅を建設した(やぶ)(たに)(現・旭)には、戦後電電公社や旭小学校(昭和56年、中央小学校へ統合)が建設され市役所などが移転して相生市の中心地となり、かつての株式会社播磨造船所付属籔谷医院(後・播磨病院)は、現在IHI播磨病院として地域の医療を担っている。

相生には今も播磨造船所に由来する行事や建造物が残されている。大正11(1922)年に播磨造船所の長崎県人会が故郷を偲んで提案したことから造船所の海上運動会として始まった「ペーロン競漕」は、戦後全市をあげての「相生ペーロン祭」となり、現在は祭りの海上行事として相生湾の内湾で毎年5月の最終日曜日に行われている。市内外から出場する多くのチームの間で激闘が繰り広げられ、未来の漕ぎ手となる子どもたちを育成する取り組みもなされている。

IHI相生事業所の工場群の北端には、今も鈴木商店時代に建てられた赤煉瓦造りの倉庫(床面積1,084㎡、高さ約13m)が残されており往時の造船所の繁栄を偲ぶことができる。この赤煉瓦倉庫は、鈴木商店時代に相生に建てられた建築物として唯一現存しているもので、今も建物の上部には、鈴木よねの名前の"米"(かたど)った星形のマーク「よね星」が大きく掲げられている。このマークは御影石(花崗岩)で造られており、鈴木商店の紋章が全国でただ一つ残されている歴史的な建造物である。

また、前記のとおり大正7(1918)年初より鈴木商店の北村徳太郎らの主導によって、藪谷(現・旭)を中心に海面を埋め立て、造船所の従業員社宅が大量に建設されたが、これらの社宅群の一部は今も健在であり、市民の住居として使用されている。

平成28(2016)年7月、相生市文化会館扶桑電通なぎさホールにおいて鈴木商店が相生に進出してから100周年を記念し、展示会・講演会などを中心にしたイベント「播磨造船所と相生の近代化」が相生市教育委員会の主催により盛大に開催され、改めて地元の方々のかつての造船所への思い入れ、関心の高さが示された。また平成29(2017)年11月18日、IHI相生事業所の主催により同事業所創業110周年記念式典が開催され、祝賀会では特別企画イベント・体験型イベント・パネル展示などが催された。

相生の発展に情熱を注ぎ、造船業を興して「西の神戸」にすることを目指した相生(おお)村長、唐端(からはた)清太郎(せいたろう)が明治40(1907)年3月に「播磨船渠(せんきょ)株式会社」を設立して以来110年余り。この播磨船渠が「播磨造船株式会社」を経て鈴木商店が経営する「株式会社播磨造船所」となり、その後も世界有数の造船所として輝きを放っていたことは、人々の心の中に永遠に生き続けるに違いない。

  • 「皆勤橋」を渡り工場へと向かう従業員
  • ペーロン競漕
  • IHI相生事業所内にある鈴木商店時代の倉庫

    上部には鈴木よねの名前の“米”を象った星形マーク「よね星」が掲げられている。

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