クロード式窒素工業の歴史①

第一次世界大戦の勃発が、わが国にアンモニア合成技術の進歩をもたらす

ドイツの化学者J・V・リービヒが窒素・リン酸・カリ(いわゆる肥料の三大要素)が農作物の増産に著しい効果があることを理論的に示したのは、1840年(わが国では天保年間)のことである。

19世紀から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは産業革命後の人口急増に伴う食糧増産のため、空気中に無尽蔵に存在する窒素の人工的な固定化によりアンモニア・合成硫安(化学肥料)を製造しようとする試みが盛んになり、高電圧放電法、石灰窒素法(フランク・カロ法)、そして遂に触媒を使用し高圧・高温下で空気中の窒素と水素を直接結合させ、アンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法が開発され、硫安(硫酸アンモニウム)、硝安(硝酸アンモニウム)、塩安(塩化アンモニウム)、石灰窒素、尿素として大量生産されるようになる。 

空中窒素固定法によるアンモニア直接合成に関する研究の先陣を切ったのが、ドイツのカールスルーエ工科大学教授、フリッツ・ハーバーであった。ハーバーが開発した画期的なアンモニア合成法はドイツのBASF社の会長、ブルンクの強い意向により同社の技術者、カール・ボッシュにより大正2(1913)年に企業化された。

この空気中の窒素と水素ガスからアンモニアを工業的規模で合成する方法(N₂+3H₂=2NH3 という化学反応により合成する)は、ハーバー・ボッシュ法(以下「ハーバー法」と記述)として広く知られており、ハーバーとボッシュはともにノーベル化学賞に輝いている。なお、その後、複数のアンモニア合成法が開発されたが、いずれも基本はハーバー法であり、同法の変形である。

当時の工業界で最も注目されたのが、空中窒素固定法である。平時には肥料、染料、医薬品、戦時には火薬が製造できるアンモニアの直接合成こそは、人絹(人造絹糸)とともに当時の革新的な最先端技術であり、時代の寵児的存在であった。ドイツ皇帝・ウィルヘルム2世は、原料のチリ硝石を輸入することなく爆弾を製造できる目途がついたので、第一次世界大戦の開戦を決意したとまでいわれるほどドイツにとっては画期的な発明であった。

多肥農業といわれるわが国の農業においては、それまで人糞、堆廐(たいきゅう)()、魚肥、菜種肥、蚕沙(さんさ)などの動植物肥料を自給していたが、明治中期以降、化学肥料の時代が始まる。

明治41(1908)年、野口(したがう)は木曾工業と日本カーバイト商会を合併、日本窒素肥料(後・チッソ、旭化成)を設立し、熊本県水俣にてフランク・カロ法による石灰窒素の生産を初めて企業化した。さらに硫安への変成を計画し、大正3(1914)年にはカーバイトを原料とする石灰窒素から硫安生産に至る一貫工場を建設した。なお、化学肥料が大豆粕や魚肥による窒素肥料を凌駕するのは、昭和初期に硫安の生産が本格化してからである。

ドイツのBASF社がわが国にアンモニア合成関係の特許を出願したのは明治42(1909)年10月で、翌明治43(1910)年3月に特許第17834号としてハーバー法の特許が成立した。なお、1,000気圧という超高圧でアンモニアを合成するクロード法の特許は大正7(1918)年3月に出願され、大正10(1921)年5月、特許第38629号として成立している。

わが国は第一次世界大戦の長期化に伴い合成硫安の輸入が途絶する一方、化学肥料の需要は増加していたため、肥料として、また軍需火薬として無限の可能性をもつアンモニア合成法をなんとかわが物にしようと、政府そして民間企業が血眼になったのも当時の社会情勢からして自然の流れであった。

大正6(1917)年、政府はハーバー法によるアンモニア合成特許の専用権を東京工業試験所と三井、三菱、住友、三共、大日本人造肥料(現・日産化学工業)などの民間各社(後に東洋窒素組合を設立)に付与した。さらに政府は化学肥料の自給を進めるべく大正7(1918)年5月、東京工業試験所内に臨時窒素研究所(初代所長・小寺房治郎・・・ハーバーに師事、工学博士)を設立し、官・民、学・軍をあげてのわが国初の大型国家プロジェクトとして国産技術によるアンモニア合成法の確立を急いだ。

臨時窒素研究所は、ハーバーの論文を唯一の手がかりとし苦心を重ねて装置を組み立て、大正9(1920)年に試験を開始した。アンモニア合成装置に関する実験部門の横山武一(後・昭和電工常務)は同年9月、アンモニア合成技術視察のためヨーロッパに出張するも、BASF社では警戒心が強く満足に工場を視察することができなかった。

たまたま、大正10(1921)年に鈴木商店がフランスのクロード法によるアンモニア合成技術視察のため磯部房信らを派遣していたことから、横山はその便宜によってジョルジュ・クロードの工場を視察することができた。横山はクロードから5日にわたって高圧合成法の話を聞くことができ、大いに得るところがあった。触媒研究部門の芝田勝太郎(メタノールの権威、後・東洋高圧工業社長)も大正11(1922)年に外遊の折、鈴木商店ロンドン支店長・高畑誠一の案内で、クロードの工場を見学している。当時画期的なアンモニア合成工場を一目見ようと、クロード詣はひきもきらなかったようである。

臨時窒素研究所は大正15(1926)年、中規模試験として連続操業による液体アンモニアの生産に成功しその使命を果たし、昭和3(1928)年に解散する。この臨時窒素研究所が開発したアンモニア合成法は東工試法と呼ばれ、昭和4(1929)年に昭和肥料(後・昭和電工)が企業化することになる。

第一次世界大戦終結後、政府は賠償金の一部として取得したハーバー法の特許権を民間へ払い下げることを決定。大正10(1921)年4月、三井、三菱、住友、三共、日本化学工業、大日本人造肥料他により東洋窒素組合が結成され特許の専用権者となり、昭和元(1926)年に企業化に向けて組合を改組し東洋窒素工業を設立したが具体化せず、結局昭和7(1932)年にハーバー法の特許権を政府に返還して解散した。この東洋窒素工業を構成した主要各社は、その後化学メーカーとして発展していった。

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