鈴木商店系製粉会社と日本製粉との統合、救済融資

鈴木商店の大里製粉・札幌製粉・東亜製粉と合併し、一大製粉会社となった日本製粉(現・ニップン)

鈴木商店において小麦は創業時からの重要品目であり、明治39(1906)年に東亜製粉、明治42(1909)年に札幌製粉を傘下に収め、明治44(1911)年には、北九州に大里製粉所を設立した。一方の日本製粉は、明治20(1887)年の有限会社日本製粉会社を起源とした歴史のある製粉会社であった。

日本製粉は、ライバルの日清製粉に対抗し、合併により規模拡大を進め、社長の岩崎清七は大里製粉所、札幌製粉所との統合を鈴木商店に打診。金子直吉は、日本製粉向け原料の供給と製品の一手販売権を条件に応じ、大正9(1920)年、鈴木商店系2社と日本製粉との統合が実現した。さらに大正14(1925)年には鈴木系の東亜製粉も日本製粉に合流した。

日本製粉の買い付ける原料代金の支払いと鈴木商店に売り渡す製品代金の受け取りは、両社間の融通手形により恒常的に行われ、資金面でも鈴木商店が援助した。しかし、第一次大戦後の不況から小麦相場の乱高下、関東大震災が日本製粉を襲い、深刻な経営危機に陥った。

この局面を打開するため鈴木商店は、日本製粉と日清製粉の合併を画策、仮契約まで進み、大正15(1926)10月3日の新聞各紙は、製粉大合併を大々的に報道した。しかし、この合併劇は土壇場で日清側よりの合併拒絶により破談となった。そして金子と岩崎は、片岡蔵相、井上日銀総裁に支援を求め、台湾銀行を通じて日本製粉、鈴木商店への融資が決まったが、この過程で鈴木商店の経営悪化が明るみとなってしまった。

日清製粉との合併不調、日本製粉の経営悪化の責任を取り、社長の岩崎が辞任、代わって鈴木商店東京支店長・窪田駒吉が社長に送り込まれ、減増資(増資分の大半を鈴木商店が引受け)により経営刷新を図った。

関連リンク

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