日本油脂(現・日油)の歴史⑤

鈴木商店は兵庫工場に続いて、王子と保土ヶ谷に硬化油工場を建設

兵庫工場において硬化油の工業的生産に成功した鈴木商店は、固形脂肪が不足しているヨーロッパではすでに石鹸、マーガリンなどの製造に硬化油が盛んに使用されており、わが国でも近い将来そのような時代が到来するとの見通しをつけると、矢継ぎ早に王子(東京)と保土ヶ谷(横浜)に硬化油工場を建設し、関東地区に進出した。当時は第一次世界大戦の最中で、硬化油の海外需要は増大の一途をたどり、造りさえすれば売れるような状態であった。

鈴木商店はこのような機運に促されて大正6(1917)年8月、王子工場(敷地面積3,193坪)の建設に着手し翌大正7(1918)年に完成。同年5月に操業を開始したのであるが、当時東京府北豊島郡王子町という場所は一丈余りの葦が密生しているデルタ地帯の湿地であった。しかも、まだ荒川放水路が存在しなかったころで、毎年必ず洪水に見舞われることから住宅はもちろんのこと工場用地としても不適当といわざるをえない場所であった。

なぜ鈴木商店はこのような場所を工場用地に選定したのであろうか。その理由は工場に隣接する関東酸曹(後・大日本人造肥料、現・日産化学工業)から発生する副生水素を利用すべく、競合他社の進出を阻止するためとされている。当時、関東酸曹が製造する電解ソーダの副生水素は利用されないまま放置されていたが金子直吉はこの点に着目し、いち早く同社の水素を全量買い受ける契約を結んだのであった。なお、この構想は後の旭電化工業、日本曹達などが硬化油生産へ進出する動機ともなり、金子の慧眼には改めて驚かされる。

一方で、王子工場の敷地は低湿地であったため土盛りをする必要があった。しかし、当時は河川法により土砂の搬入が禁止されていた。そこで工場を横断する道路の西側約4,000坪の土地を7~8尺掘り下げ、その土砂で約9尺の土盛りをした。このため、掘り下げた土地は大きな池となり、子供たちの泳ぎ場になったという。この土地はその後何十年もの期間を要して工場から排出される石炭灰によって埋め立てられ、立派な敷地に更生された。

王子工場では日本リバー・ブラザーズ尼崎工場の技術を参考にしたオートクレーブ(硬化釜)を装備し、硬化油、脂肪酸、グリセリンの製造を開始した。硬化油はその約7割がヨーロッパ向けに輸出された。グリセリンの製造では化学機械の工作が未熟なため何度も失敗を繰返す中、昼夜兼行の努力が払われた結果、わが国で初めてグリセリンの真空濃縮に成功した。しかし、当初はなかなかダイナマイト用グリセリンの合格品が完成できなかったため、主に工業用グリセリンの製造に当たった。

大正7(1918)年の後半になってようやくダイナマイト用グリセリンの合格品が完成するようになった。ところが、同年年11月に第一次世界大戦が終結すると、たちまちにしてグリセリンの価格は暴落し採算がとれなくなった。このため当初の計画に従って硬化油の製造に重点を置くことになったが、硬化油の方も輸出がぱったり途絶え、前途多難な状況に陥った。

この苦境を乗越えるため、王子工場は硬化油を原料とした国内石鹸市場への進出に活路を見出し、洗濯石鹸の製造に向けて研究を続けた。後に王子工場が鈴木商店から独立しスタンダード油脂の工場になると、本格的に洗濯石鹸の製造に乗り出すことになる。

金子直吉は兵庫工場を完成して硬化油の製造に乗り出したころから、折からの硬化油輸出の増大に備えるべく魚油による硬化油だけなく大豆油による硬化油製造を検討し実行した。これに伴い、兵庫工場が繁忙を極めるようになったことから、競合他社の進出を阻止するという観点も考慮し、保土谷曹達が苛性ソーダ製造に伴い放棄していた副生水素を買い受けることとし大正6(1917)年、兵庫工場から大豆油による硬化油製造を引き継ぐべく保土ヶ谷工場(横浜市)を建設した。保土ヶ谷工場の規模は兵庫工場よりもやや小さく敷地は約4,500坪で北側の空地をへだてて保土谷曹達の正門に続いていた。

当時大豆製油工場として稼働していた鈴木商店の横浜工場は川岸に位置していたので、大豆油を船で帷子(かたびら)川沿いの保土ヶ谷工場に運び、同工場ではこれを原料として輸出用の大豆硬化油を中心にカンデリン(*)、硬化蠟、海軍および航海用燭光ローソク、灯明用ローソク、分解グリセリンなどを製造した。

(*)大豆油を分解して高度ステアリン酸を製造し「カンデリン」と命名してローソクの原料として売り出した。これを加工したローソクは英国産のパラフィンローソクをしのぐほどの市場占有率を示したという。

※保土ヶ谷工場は大正11(1922)年10月、兵庫工場とともにスタンダード油脂に合併されるが、翌大正12(1923)年9月の関東大震災により本郷工場(前身は住田流芳舎本郷工場)とともに壊滅する。

鈴木商店は大正4(1915)年から大正6(1917)年にかけて硬化油製造のための三大工場を建設することによりわが国における硬化油工業の主導権を掌握し、業界に君臨する態勢を整えた。改めて三工場の特徴を記すと次のとおりである。

兵庫工場では魚油を使用した輸出向け硬化油を大量生産するとともに、国内向けにも硬化油を製造した。王子工場では硬化油、脂肪酸、グリセリンを製造し、後には洗濯石鹸製造までの一貫生産を行うようになる。保土ヶ谷工場は大豆油を使用した輸出向け硬化油製造を兵庫工場より引き継ぐとともに、硬化油を分解してローソクの原料である高度ステアリン酸などを製造した。

日本油脂(現・日油)の歴史⑥

  • 鈴木商店製油所王子工場
  • 王子工場設置許可証
  • 昭和63年頃の日本油脂王子工場(旧鈴木商店製油所王子工場)

    ※大師工場新設に伴い平成16(2004)年7月31日に閉鎖された。

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