日本油脂(現・日油)の歴史⑥

鈴木商店は製油工場の分離独立の第一歩として「スタンダード油脂」を設立

硬化油工業が第一次世界大戦という時局に恵まれ急激な進展をみたのは、主として硬化油がヨーロッパを中心に輸出されたことによるが、大正7(1918)年に大戦の終結を迎えると同時に輸出が途絶し、硬化油業者はその販路を国内に求める必要に迫られた。

しかし、当時硬化油最大の需要者と期待された石鹸業者は、硬化油の製造技術面および価格面の理由から石鹸原料の大半を豪州産の輸入牛脂(ぎゅうし)やヤシ油に依存しており、硬化油を石鹸業者に売り込むことはなかなか困難な状況にあった。

※大正9(1920)年における石鹸製造業者の硬化油使用料を見ると、石鹸原料としての油脂使用総量の10%にも達していない。

このように、硬化油は国内販路に隘路(あいろ)がある上に製造上の技術に未熟な点が多かったため生産費がかさみ輸入牛脂に太刀打ちできず、鈴木商店の各油脂工場の経営は容易ではなかった。王子工場も大戦終結後は半年ほど工場を閉鎖して一部の職工を解雇し、残留した社員は事務所で将棋や相撲をするなど閉店休業状態が続いた。

窮地に追い込まれた鈴木商店は、硬化油から石鹸までの一貫生産を実現した場合の最終コストを考慮すれば牛脂に対抗できると考え、王子工場のグリセリン製造を手控えて同工場自ら硬化油を原料として洗濯石鹸を製造することを計画した。ところが、王子工場には石鹸製造の経験がなく設備も製造技術も持ち合わせていなかったので、有力な石鹸業者と合併することが賢明との判断からライオン石鹸に白羽の矢を立て、同社に話を持ちかけた。

その結果、合併の具体的な方法が決定し合併後の社名も「ライオン石鹸」とするところまで話は進んだが、鈴木商店はライオン石鹸側からその商標の使用代として30万円の権利金を要求されたため、合理肌の金子直吉はこれに反対し、結局この合併は実現に至らなかった。

一方、これと相前後して鈴木商店は大戦終結に伴う反動不況により大きな打撃を受け、業績は悪化の一途をたどっていた。この状況が同社の油脂部門へ波及することを憂慮した金子直吉の右腕ともいうべき立場の長崎英造が金子直吉にはかった結果、鈴木商店は王子工場を分離独立させることを決定する。

大正10(1921)年4月7日、鈴木商店は王子工場を独立させた上で当時東京市本郷区にあった住田多造(東京石鹸製造業組合長)が経営する住田流芳舎(後・本郷工場)を5万円で買収し、「スタンダード油脂株式会社」を設立。当時輸入品で占められていた洗濯石鹸を硬化油を原料にして製造することを目指した。

スタンダード油脂の資本金は当初150万円。本店は東京市麹町区永楽町の東京海上ビルディング内に置いた。「スタンダード油脂」の社名は金子直吉の命名で、アメリカの巨大石油会社「スタンダード石油」の名称にあやかったものである。当時は横文字を社名に用いた会社は珍しかったという。役員は次のとおりであった。

取締役社長 長崎英造、専務取締役 長久伊勢吉、取締役 岩野真英、住田多造、小山由孝(持田由孝)、楠瀬正一、久保田四郎、監査役 古沢懿人、長郷幸治、村橋素吉

スタンダード油脂の設立は洗濯石鹸の製造を目的とするものであったが、肝心の住田流芳舎は化粧石鹸の製造の歴史は古いものの洗濯石鹸については実績がなく、製造技術も持ち合わせていなかった。当時は石鹸業者も化粧石鹸に主力を置いており、洗濯石鹸はほとんど製造していなかったのである。

そこで、同社は日本リバー・ブラザーズ尼崎工場の硬化油を原料とする洗濯石鹸製造装置や製造技術を参考に、リバー社が採用していた蒸気()きの鹸化釜を王子工場に装備し製造を開始した。

王子工場は洗濯石鹸の製造に当たり何度も失敗を繰返し、工場に返品が山積みになるなど責任問題にまで発展することもあったが、洗濯石鹸事業は大戦後の反動不況の影響が比較的少なく、順次軌道に乗り出した。製品の"レコード石鹸"の商標は住田流芳舎が保有していた数多くの商標の中から選ばれたもので、レコード石鹸は昭和20年代ごろまで使用され広く一般に愛用された。

このように、スタンダード油脂の王子工場は日本資本の会社としては初めて本格的な洗濯石鹸の製造に先鞭をつけたわけで、このことは日本油脂の歴史上大きな業績の一つということができる。

しかし、主力の硬化油、グリセリンの製造は反動不況の波をまともに受けたため、経営状況は決して楽観できるものではなかった。実際、大正11(1922)年末ごろから魚油などの原料価格が高騰し、グリセリンの製造は輸入品に押されて不振を続け、経営は次第に困難の度を増していった。

一方、反動不況に苦しんでいた鈴木商店はワシントン軍縮会議(大正10年11月開催)の結果、海軍軍備制限条約が成立したことにより金子直吉の「八八艦隊」の建造という海軍の大拡張計画による軍需をあてにした起死回生策が不発に終わり、さらなる打撃を受けることになった。

そこで、鈴木商店が経営している数多くの事業の中でも前途有望な油脂部門を分離独立させて存続させる方針が固まり大正11(1922)年10月15日、すでに独立していたスタンダード油脂は鈴木商店から兵庫工場、保土ヶ谷両工場および小樽製油工場を350万で譲り受け、うち80万円を支払って残額270万円を未払金(*)とした。

(*)この未払金270万円は、翌大正12(1923)年2月にスタンダード油脂と日本グリセリン工業が合併し「合同油脂グリセリン」が発足するに際し、資本金に振り替えることになる。すなわち、合名会社鈴木商店が発行新株270万円分を引き受けることにより、資本金を150万円から420万円に増資したのである。

こうして、スタンダード油脂は鈴木商店が経営する主要な油脂工場(兵庫工場、王子工場、保土ヶ谷工場、本郷工場)を統合し、当時の油脂工業界に確固たる地位を築いた。

日本油脂(現・日油)の歴史⑦

  • レコード石鹸の宣伝風景

    ※幟に「製造元 スタンダード油脂株式會社」の文字が確認できる。

  • 長崎英造
  • レコード石鹸の新聞広告

    ※「鈴木商店経営」「スタンダード油脂株式會社」の文字が確認できる。 

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