太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑬

子会社・新日本金属化学の吸収合併、各工場の集約化により生産体制の整備をはかる

前記のとおり、昭和48(1973)年の第一次オイルショックに伴う不況後に缶入りの酸化モリブデン(モリブデン缶)が登場し、鉄鋼メーカーが一斉にこの製品への転換をはかったため、モリブデン・クリンカーを主力製品としていた太陽鉱工は大きな打撃を受けるが、同社の業績をカバーしたのが無機化学工業分野向けの化成品用モリブデンであり、バナジウムであった。

昭和60(1985)年度の売上高に占めるこれらの製品の比率は化成品用モリブデンが19.6%、同バナジウムが2.0%と、ついに売上高の5分の1を超えるまでになり、同社の業績向上に大きな役割を果たした。

しかし、昭和60(1985)年9月22日に「プラザ合意」が成立すると、急激な円高により日本製品の国際競争力は急激に低下した。鉄鋼業の不振によりモリブデン、バナジウムの需要も多大な影響を受けて急減し、同社の業績は一気に落ち込んだ。

同社は人員整理を含む合理化、生産効率の向上、原価低減、棚卸資産の圧縮等あらゆる対策を講じてこの事態に立ち向かうとともに、こうした状況下において第3の金属、すなわち希土類(レアアース)に着目し、各種事前調査を経た上で本格的に新規事業へ進出する方針を公表した。

平成元(1989)年、この方針に基づき、赤穂工場の拡張がすでに限界に達していた同社は福井県坂井市のテクノポート福井にレアアース工場用地(約1万坪)を取得した。なお、昭和63(1988)年9月には同社の子会社であり、軽希土類に強みを持つ新日本金属化学も隣接して0.5万坪の工場用地を取得した。

平成2(1990)年3月、同社は製品市況の変動に対応できる財務体質の強化、工場用地・工場設備に対する投資、新製造方法の研究開発など将来の事業展開に対応すべく、倍額増資により資本金を2億円とした。平成3(1991)年6月には経営トップが交代し、社長の鈴木治雄が会長に、治雄の長男、鈴木一誠かずのぶが社長に就任した。なお、これに先立つ同年3月には現在の本社新社屋が神戸市中央区磯辺通1丁目に完成し、移転した。

従来から同社の業績には波があり、その一因は経済動向にもあったが、さらに円高など為替の動向や需給関係における製品価格の下落にも多大な影響を受けていた。同社はこうした外部要因を経営努力によって克服しようと、①原材料の見直し、②再資源化事業の作業工程の改善によるコストダウン、③既存製品の取捨選択による競争力強化等の諸施策を講じていった。

昭和45(1970)年8月、新日本金属化学は浜松市北区細江町に細江工場を設立したが、ドルショック(ニクソンショック)、第二次オイルショックなどの外部要因の影響を受けて一気に業績が悪化し、その後も不安定な経営が続いていた。

平成元(1989)年、太陽鉱工は新日本金属化学と共同で福井県坂井市に「福井新素材」を設立し、軽・重希土類(レアアース)を含む総合希少金属メーカーのトップ企業となることを目標に掲げるとともに、新日本金属化学には役員クラスの人材を派遣して業務改善や技術的改善に当たった。

しかし、その後中国製品の安値攻勢、原料の入手困難など種々の問題が生じ、平成2(1990)年後半には中国の希土類製品の値崩れが激しくなったことから事業採算が取れない状況に陥り、福井新素材の経営は平成6(1994)年の前半には一段と悪化し、福井でのレアアース事業は断念せざるを得なくなった。

その後、太陽鉱工は福井の工場用地にモリブデン酸精製工場とモリブデン酸アンモニウム工場を建設する方針に転換し平成12(2000)年10月、福井新素材の休止工場の一部を借り受け、新工場(福井工場)の操業をスタートした。これにより、同社のモリブデン化成品の生産量は大きく伸び、それまで1,000トン台であった高純度三酸化モリブデンの生産が平成12(2000)年には1,300トン弱に、翌平成13(2001)年には1,450トンにまで増加し、石油精製用触媒、各種石油化学製品用触媒としてユーザーの旺盛な需要に応える体制が整った。

なお、結局親会社・太陽鉱工の多大な援助にもかかわらず、新日本金属化学の経営を完全に立て直すには至らず、太陽鉱工は平成16(2004)年10月に同社を吸収合併した。

旧新日本金属化学の京都工場、細江両工場の内、京都工場は操業自体が周囲の環境に適さなくなったことに加えて、老朽化も激しくなったため平成21(2009)年9月に閉鎖し、福井工場への生産集約を行った。細江工場では平成20(2008)年に赤穂研究所の力を借りて新製品のCeスラリー(セリウムを用いた研磨剤)とZrスラリー(ジルコニウムを用いた研磨剤)を完成し、現在はユーザーからも高い評価を受けるとともに収益の安定化に貢献している。

昭和40(1965)年6月に太陽鉱工初の重油燃焼滓を原料にしたバナジウム抽出工場として操業を開始した伊予工場(愛媛県伊予市)は設備の老朽化、環境問題等の観点から平成18(2006)年6月30日に閉鎖し、赤穂工場への生産集約を行った。

一方で、福井工場には本格的に設備投資を実施し、生産体制を整備・拡充した。この結果、同工場はビスマス製品、研磨剤、スズ製品、ジルコニウム製品およびモリブデン化成品関係製品の設備が整備され、石油精製触媒、石油化学用反応触媒、ターゲット材など各種金属・化学用モリブデンの生産を主力とする工場に生まれ変わり、赤穂工場で焼成していた三酸化モリブデンの生産を同工場で開始するなど運搬費・労力コストの削減にも大きく寄与することとなった。

平成20(2008)年10月、太陽鉱工は赤穂工場内に専用工場(660㎡)を新設の上、ドイツのALDバキューム・テクノロジーから購入したバナジウム精錬用電子ビーム溶解炉(EB炉)を設置し、ここに約30年前から研究・検討してきた金属バナジウムの一貫生産を完成させた。

従来、同社の金属バナジウムは、使用済触媒から五酸化バナジウムを抽出し、さらにテルミット反応を経てアルミバナジウムを生産し、その上で外部の非鉄精錬メーカーに委託溶解して最終製品を生産していた。このEB炉の完成により、同社は廃触媒からバナジウムを回収する湿式技術とテルミット反応、乾式精錬技術を融合させたわが国初の一貫生産体制を確立するとともに、品質面でも世界最高レベルを実現した。

EB炉により生産される高純度金属バナジウムは、水素吸蔵合金、水素透過膜などの水素エネルギー関連、ターゲット材に用いられるほか、核融合炉用ブランテット材など多様な用途が期待されている。

太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑭

  • 赤穂工場内の金属バナジウム製造設備(電子ビーム溶解炉) 
  • 細江工場(静岡県浜松市)
  • 福井工場(福井県坂井市)

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