日商(現・双日)の歴史⑤

日本発条の設立

日商は、貿易・物流中心の取引から、再び鈴木商店と同じように生産事業に進出する。特に日本発条は、旧鈴木商店社員が構想し設立され、その後現在にも続くバネメーカーに成長する。

旧鈴木商店の鉄材部に勤務していた人たちは破たん後も定期的に親睦会を開催。常連に日商の楓英吉、井上商店(神戸製鋼所の問屋)の井上清、日亜製鋼の坂本寿などがいた。ある時、井上が坂本に「自分の経営する伸鉄工場で東京方面からバネ鋼の圧延の注文が伸びている。自動車用のバネに使うらしい」という話をした。後日さらに調査した結果、自動車バネの有望性を確信し、ちょうど東京に芝浦スプリング製作所という町工場があり、その社長が手放したがっているということが分かった。

鈴木商店関係で生まれてきた話であり、日商の楓にも話を通すことにした。バネの有望性については、日本では自動車は軍需産業で使用されている程度であったが、日本の大陸進出も考えれば、さらに需要が伸びる可能性があった。こうして日本発条は日商が50%、井上商店が40%を出資して設立。初代の社長は楓が務めた。

当初50人ばかりの町工場であった日本発条は、業界では後発組であったが、昭和30年頃には業界一位まで成長する。そして昭和33(1958)年に大同発条と合併し、世界一のバネ専門メーカーとなった。昭和32(1957)年からは永井幸太郎が社長を務めている。

なお、楓は高知商業、神戸高商卒で高畑誠一と永井幸太郎の片腕であり、鈴木商店破たん時は鉄材部の責任者でタタの銑鉄ビジネスを鈴木商店から日商に引き継いだ功績者でもある。楓の墓は鈴木商店の菩提寺の祥龍寺にある。一方の井上も高知商業卒で鈴木商店入社後は楓の下で鉄の商売を覚えた。

日商(現・双日)の歴史⑥

  • 楓英吉
  • 坂本壽
  • 巻ばね加工(芝浦スプリング)

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