日商(現・双日)の歴史⑥

戦後復興への協力、永井幸太郎貿易長官に

日本が太平洋戦争に突入すると、金子直吉は「象に蠅がとまったようなもの」、高畑誠一は「資源も無く工業力も未熟な日本が資源大国英米に勝てるわけがない」と痛烈に批判。昭和18(1943)年には、軍の指示により、日商は日商産業に、社名変更させられている。昭和19(1944)年、金子直吉は死去。最期を見とったのは高畑といわれている。昭和20(1945)年2月、高畑は会長に、永井幸太郎は社長に就任し、その後間もなく終戦を迎えた。

敗戦になると高畑は、早くも戦後賠償について持論を展開し、「終戦に伴う軍需産業に対する補償と賠償問題」という論文をマッカーサーに送り、日本の平和的復興のために寛大な対応を求めた。高畑はその論文について「領土とその資源をすべて喪失した日本に、その上、焼け残った残余財産まで賠償でもぎとられては全く日本の立つ瀬がなく、復興などはおよびもつかないと思った。国民外交のつもりで英文にし、マッカーサー将軍に数字を羅列して訴えた。当時敗戦というショックに打ちひしがれて、日本人の中には占領軍にこんなことをいう人は誰もなかったと思う」と語っている。

また永井もいずれ貿易が再開されると予見し、「貿易政策の構想に就き社員諸氏の意見を伺い度し」という論文を社内報済美に掲載、来るべき貿易再開に向けた準備を行うよう働きかけた。

永井は、吉田首相に呼び出され、持論のエネルギー政策を展開。そして吉田茂の共鳴を呼び、昭和22(1947)年、第三代貿易庁長官に任命された。その間、永井の復帰を待つべく社長職は空席とした。そして昭和24(1949)年に復帰をする。

永井は長官退任直後の昭和24(1949)年1月にGHQからの求めに応じて、単一レートについて意見を具申し、スウェーデンのカッセル教授が購買力平価説を論拠に一ドル400円を主張したが、これは不自然であるとしている。その後、360円に固定されるが、永井は「あの頃、300円くらいでもやっていけなかったとは思うが、一度決めたら永続性があるものでなければならず、ゆとりが必要で360円は適当なところだと思った」と語っている。

昭和29(1954)年、永井の次女きみは、日本銀行行員であった速水優と結婚する。なお速水優はその後、昭和56(1981)年に同行を退職し、日商岩井の専務取締役として招かれる。その後、昭和59(1984)年に同社社長、昭和62(1987)年には同社会長に就任。そして昭和63(1988)年からは日銀総裁に就任している。

日商(現・双日)の歴史⑦

  • 社訓制定について語る永井幸太郎
  • 日商岩井社長時代の速水

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