帝人設立の歴史⑥

大戦景気による追い風を受け、帝国人造絹糸(現・帝人)を設立

秦逸(はたいつ)(ぞう)の出張中は、久村(くむら)(せい)()が米沢工場の運営を担った。大正6(1917)年には、人絹の生産量が初めて日産百ポンドに達した。しかし毎月の赤字は拡大し、ついに(あずま)工業の資金だけでは足りず、親会社である鈴木商店に助けを求めた。

度々の援助に鈴木商店経理主任の日野誠義が「人絹に金を注ぎ込むくらいならドブの中に捨てた方がましだ」と怒り、金子直吉が「まあ、出しといてやれよ」となだめたという。鈴木商店の資金援助は、本格的な利益が出る大正12(1923)年まで続く。

この頃、第一次世界大戦の長期化で日本国内の人絹市場が一変する。人絹の輸入が急減し品質に関係なく突然出荷量が増加、価格も暴騰するという追い風が吹いたのである。大正3(1914)年の輸入量は17.6万ポンドで平均単価が1.52円であったのに対し、大正7(1918)年には輸入量が7.7万ポンドに急減し平均単価が5.06円と高騰した。米沢の東印(東工業)の人絹も外国品並みの価格が付いた。

またこの頃には徐々に品質も向上する。大正6(1917)年10月には上野で開かれた東京化学工業博覧会に出品し、銀賞牌を獲得している。そして東工業東京出張所からは「大馬力にて製造せよ」との督励電報が飛んだ。東工業の事業報告書には「輸入品に遜色のなきまでに進み、生産高は前期の10倍に至る。新事業は幾多の将来を有する最も有望の事業なり」と記載され、意気揚々な報告となっている。

このように、ようやく工場の生産が軌道に乗る兆しが見えたこともあり、東工業から人絹部門である米沢工場を独立させることとなった。大正7(1918)年5月5日、東工業分工場米沢人造絹糸製造所の開所式を米沢松岬公園にて各界の名士を招待して行い、鈴木よね、鈴木岩蔵も出席した。

6月17日には創立総会を開き、帝国人造絹糸(株)の設立決議を行った。(この大正7年6月17日が帝国人造絹糸(現・帝人)の設立日である) 本社は東工業本社内(大阪府西成郡稗島村)に置き、社長には鈴木岩蔵、専務には佐藤法潤と松島誠、取締役には久村清太と秦逸三、監査役には西川文蔵、松田茂太郎らが就任。経営の実際の責任者は松島誠、技師長は久村清太であった。米沢工場の方は工場長・長本庄利平、技師長・秦逸三の二人が工場の運営にあたった。

社章は、鈴木傘下の会社にはサクラビールをはじめとして桜を社章とするものが多く、米沢は上杉の城下町で桜が非常に多いことから、桜の中に糸枠を入れたものとした。実は鈴木商店の社章は菱形で、これは鈴木よねの「米」を図案化したものである。当初は米沢の米とかけて菱形マークを採用する案もあったという。ちなみに、神戸製鋼所の社章も菱形である。社名は鈴木傘下の会社には帝国樟脳、帝国染料、帝国ビールなど帝国を冠するものが幾つかあったことから、帝国人造絹糸に落着いた。

  • 帝国人造絹糸設立記念はがき
  • 帝国人造絹糸の社章
  • 米沢を訪れた鈴木よねを囲んで

    鈴木岩蔵(前列中央)、秦逸三(前列右から2人目)、 久村清太(後列右から2人目)

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