帝人設立の歴史⑦

当時の帝国人造絹糸・米沢工場点描

当初、帝国人造絹糸・米沢工場では女工の給与は高かったが、人絹の生産が思うに任せず赤字続きであったため、第一次世界大戦中に景気が良くなっても給与は据え置かれ、次第に女工の募集は困難になっていった。また米沢の地が絹織物業の盛んなこともあって米沢工場が絹織物業者から白眼視され、「人絹製造に使う薬品で子供が生まれなくなる」といった悪評を立てられたこともあった。そして実際に工場の設備・排気などが粗悪であったため、目や肌を痛めることも多々あった。

給料が低いのは赤字操業ということもあるが、これは鈴木商店の伝統でもあった。金子直吉は私利には無欲で自らの給与も低く、社員の給料、中でも若い社員の給料は低く抑えられていた。これは金子の丁稚時代からの名残りで、金子自身の哲学・信念であったという。ただし社員の生活にはよく気を配り、鈴木商店には当時から家族手当があった。松島誠(帝人の主管)も、給与の増額を要求されても「これで食っていけるから十分だ」とやはり金子と似ている点があった。

待遇は良くなかったが工場での生活は朗らかで、そこには上下の隔てはほとんど無く、一つの釜の飯を食べるという気持ちがみなぎっていた。工場内に工場長・技師長の社宅があり、女工が工場長の家に遊びに来ることもあった。この家族的な社風は広島工場にも伝わり、次第に帝人の家族的な社風が醸成されていった。これは鈴木商店がお家さんを中心とした家族主義的な経営を行った点とも共通する。また、創立当初から女子従業員の自主性が尊重され、レクリエーション活動も盛んで、この頃からすでに「従業員重視・厚遇」の風土が存在していた。

大戦景気により米沢地方の機業(絹織業)の操業が盛んになると、深刻な電力不足が生じた。米沢の機業家は電力の確保のため奔走し、電力の取り合いとなった。水力発電のため、夏には渇水により電力不足となり、冬には積雪で水路が塞がり、除雪作業は電力会社の従業員だけでは足りず、米沢工場から人手を貸したことも再三であった。そして工場内に停電計なるものを設置し、停電の回数・時間を調査して逓信省に陳情しようとも考えた。停電はあまりにも酷く、最高の記録は一日に60数回、20分間に1回の割合であった。技師長の秦逸三秦は夜中に寝巻のまま工場事務所にかけつけて電力会社に電話をかけ、口論の末には広島弁で怒鳴ることも度々であったという。

  • 慰安会の風景(女工のテニス姿)
  • 工員の食堂の風景
  • 事務所外部の様子

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