太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑥

モリブデン鉱石輸入自由化への対応と関係会社株式の精力的買い戻し

日本経済は昭和30(1955)年頃から高度成長期に入り、その後15年余にわたり重化学工業化、高加工度化が急速に進展し、わが国は世界一流の工業国に成長していった。全国各地で石油コンビナートが建設され、鉄鋼大手は高炉一貫メーカーへと変貌していった。

このような状況の中、鉄鋼、石油精製、石油化学といった巨大産業の設備投資において、随所で耐熱性、耐蝕性を高める効果が大きいモリブデンやバナジウムが不可欠の鉄鋼添加材として急速な需要の高まりを見せるようになった。

仙台工場でフェロモリブデン、フェロバナジウムの生産を開始して以来、不況の中で低迷を続けていたこれらの需要は、昭和30年度下期から始まる「神武景気」の到来とともに大きく好転した。

昭和30(1955)年までは年間40トン前後にすぎなかった仙台工場のフェロモリブデンの生産は、昭和31年度には一挙に195トンに跳ね上がり、前年度比5倍という大きな伸びを示した。フェロバナジウムも同様に昭和30年度の9トンから31年度の28トンへと3倍の伸びを示した。

「神武景気」による輸出の増大を機動力としてわが国の工業生産は急拡大したが、一方で基幹産業である鉄鋼・機械・電力・輸送などの諸部門において生産能力が限界に達し、拡大のテンポを制約し始めた。このため、政府は鉄鋼の緊急輸入を促進する措置をとった。

一方で、フェロモリブデンの生産もまた、ステンレスを始めとする含モリブデン特殊鋼の急激な生産増大に追いつくことができない状態となっていた。

このため、西ドイツよりフェロモリブデンの緊急輸入措置が講じられ、また海外モリブデン鉱石の主要供給源であった米国・クライマックス社(昭和32年にアメリカン・メタル社と合併し、アメリカン・メタル・クライマックス社となる)以外のプレミア付き鉱石の輸入も実施されたが、需給バランスの回復までには至らなかった。

このような状況の中、通商産業省(以下「通産省」)は昭和31(1956)年10月1日にモリブデン鉱石の輸入自由化(自動承認制)(*)への移行を決定した。

(*)A.A制(Automatic Approval System)と呼ばれたこの制度に指定された品目は、外貨予算で決められた金額の枠内で為替銀行において自動的に輸入の承認が与えられた。

この制度の発足後、数か月を経ずして大量の硫化モリブデン鉱石が輸入され、国内鉱山の経営は圧迫され、月を追って山元の在庫が増大していった。さらに、昭和32(1957)年に入ると日本経済は一転して不況(いわゆる「鍋底景気」)に突入したため、国内のフェロモリブデンおよびモリブデン鉱石の在庫は、当時の消費量の1.5年分にまで増大し、業界は重大な危機に直面した。

このため、太陽鉱工東京支店は、同様に国内モリブデン鉱山を経営する住友金属鉱山他との連名で業界の窮状を訴え、通産省鉱山局にA.A制による輸入の停止を求める陳情書を提出した。昭和32(1957)年9月26日、この予想外の需給混乱を重く見た通産省は収拾に乗り出し、モリブデン鉱石の輸入を全面停止した。同年4月、橋本隆正常務が専務取締役に就任。

以後、通産省鉱山局の指導の下でモリブデン鉱石の在庫が少なかった日本鋼管と太陽鉱工が他の国内鉱山、商社の在庫を適正価格で引き取ることになった。これにより在庫調整が進み、昭和33(1958)年1月に至って完了した。

■活況の子会社・羽幌炭砿鉄道
太陽鉱工設立と同時に、前身の太陽産業が保有していた直営会社・関係会社を中心とする株式は、一旦すべて処分されたが、同社は昭和20年代末から30年代にかけて再びこれらの株式を精力的に買い戻していった。

その中でも特筆すべきは太陽曹達(後・太陽産業)によって開発され、昭和16(1941)年3月17日に資本金300万円をもって発足した石炭採掘と鉄道経営を主業とする羽幌炭砿鉄道株式会社であった。

羽幌炭砿鉄道は昭和15(1940)年2月に築別炭砿、昭和22(1947)8月に上羽幌坑、昭和23(1948)年8月に羽幌本坑を開坑すると昭和36年度には出炭量が100万トン越えを達成し、「中小炭鉱の雄」と称される優良炭鉱に成長した。

戦後は700万円の資本金をもって生産を再開すると、戦後の復興、日本経済の発展とともに資本金2,500万円、7,500万円、1億5,000万円、3億万円、6億円さらに7億5,000万円と次々に増資を行い、昭和31年度以降は石炭産業の好況により待望の配当を実現し、親会社である太陽鉱工に多額の配当収入をもたらすこととなった。

太陽鉱工が昭和30年代前半に積極的な設備投資を断行することが可能となったのも、羽幌炭砿鉄道を中心とする関連会社に対する投資事業収入によるところが大であった。なお、昭和30年代中頃までに、羽幌炭砿鉄道のほかには次のような関係会社の株式が買い戻された。

東邦金属(大阪市、資本金6,500万円)、日本樟脳(神戸市、資本金6,000万円)、新日本金属化学(京都市、資本金1,000万円)、鈴木薄荷(神戸市、資本金1,000万円)、伊予窯業(伊予市、資本金200万円)、太陽チタン(京都市、資本金200万円)、帝国樟脳(神戸市、資本金100万円) また、姉妹会社として日商(大阪市、資本金22億8,800万円)(*)があり、その他数社の関係会社があった。(昭和35年4月現在)

(*)以下、「日商四十年の歩み」(昭和43年9月1日発行)より
「昭和九年(1934年)八月、(日商は)第十三回定時株主総会において資本金を百万円から一挙に三百万円に増資することを決定、・・・・ ここで注目されることは、創立当初からの株主であった横浜正金銀行の名が消え、新たに太陽曹達株式会社取締役鈴木岩蔵が筆頭株主となり、一万四百株(一株につき百円は変わらず)を所有することになったことである。

そして監査役志田正雄が退任し、小川実三郎が新たに就任した。小川は元鈴木商店社員で、かの有名な金子直吉の書簡(「天下三分の宣誓書」と称される書簡)を持ってロンドンの高畑の下へ赴任した人物である。・・・・ この後、多少の変動はあるが太陽曹達は日商の大株主として存在した。

ということは、この頃から日商は資本的に旧鈴木系であることを鮮明にしたといえる。したがって、当然のことながらその営業取引面においても、神戸製鋼所、播磨造船所、帝国人造絹糸など旧鈴木系譜諸企業と密接な関係を保っていた。」

太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑦

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