鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史⑦

戦時体制下の軍需工場を経て、終戦後業界のトップを切って民需品への転換をはかる

昭和12(1937)年7月、日中戦争の勃発を機にわが国は戦時経済体制に突入し同年、神戸製鋼所電機部電機製作工場は「神戸製鋼所鳥羽工場」に改称された。翌昭和13(1938)年1月には陸海軍共同の管理工場に指定され、設備の移転・拡大・縮小から雇用に至るまで陸海軍大臣の許可が必要となった。

この結果、ポットモータや紡績用モータといった民需用機器は軒並み生産が減少した。代わって、軍需工業用のモータや軍部へ直接納入する航空機用電機品、野外用発電機、艦船用空気圧縮器用電動機などの生産が急増し、急速に軍需工場化が進んだ。ただ、民需品の中でも外貨獲得に一役買ったレジスターだけは例外で、国内はもとより、中南米諸国、オーストラリア、フィリピンなどにも輸出された。

戦局の拡大に伴い、軍部からの増産要請はいよいよ急となった。取り分け昭和16(1941)年12月の太平洋戦争突入以降は、民間企業に対しても航空機、兵器、船舶をはじめとする軍需品の増産が至上命令となり、鳥羽工場に対しては陸海軍から航空機用電機品の緊急増産が、陸軍からは戦車用無線電機品の大量生産が命令されるなど、もはや電機産業としてのあるべき姿など望むべくもない状況となった。

当時鳥羽工場の敷地の拡張がすでに限界に達していたことから、建設会社・北岡組を経営する伊勢の名士、北岡善之助(後に宇治山田商工会議所会頭や宇治山田市長を務める)に新工場の建設を一任した結果昭和16(1941)年3月、北岡の多大な尽力により宇治山田市(現・伊勢市)の北東に当たる神社(かみやしろ)町の23万㎡の敷地に海軍の航空機用発電機の製作を主目的とした新工場が完成した。これをきっかけに神社町は同年5月に宇治山田市と合併し、工場名も「山田工場」となった。

昭和17(1942)年のミッドウェー海戦での日本軍大敗北とガダルカナル島の米軍反攻開始を契機に、航空機の消耗は一段と激しくなり、軍からの航空機用電機品の増産命令はいよいよ緊迫の度を増し、鳥羽工場や山田工場の増設ぐらいでは到底追いつかなくなったため、電機部門の新たな工場の建設に着手することとなった。

昭和18(1943)年10月には当時密接な関係にあった立川の陸軍航空技術研究所にほど近い東京都日野町(現・日野市)に「東京研究所」(敷地約10万㎡)を、同年11月には三重県津市に紡績工場を転用した「津分工場」(鳥羽工場の分工場)を建設した。さらに昭和19(1944)年4月には松阪市に「松阪工場」(約55万㎡)を建設し、徴用工、学徒動員合わせて1万人を動員し、昼夜を通して陸海軍航空機用電機品の増産を進めることとなった。昭和18(1943)年2月、小田嶋修三(おだじましゅうぞう)は神戸製鋼所常務取締役に就任した。

各工場は次々に操業を開始し、昭和19(1944)年頃には全製品の75%までが航空機関係で占められ、その中でも航空機用エンジン直結式発電機については、全陸軍用の85%、全海軍用の70%の生産を担当し、各航空機メーカーに供給された。さらに、インバータやコンバータといった航空機用電装品に使用されるあらゆる種類の電気接点、燃料ブースタやポンプ、配電盤機器類なども製作した。

その後日本軍はサイパン島、レイテ島などにおいて壊滅的な打撃を受け、米空軍による日本本土への大規模な空爆が始まった。鳥羽工場をはじめとする各工場は疎開工場、地下工場の建設を急いだが、山田工場はその完成を見ることなく昭和20(1945)年6月、数次の空襲を受け工場の大半を焼失した。

神戸製鋼所の本体も、神戸の30数工場、地方の20数工場が兵器製造順位第1位の純軍需工場として、軍需省、陸海軍から資材の最優先が保証されているという建前ではあっても、実際には石炭、ガス、鉄が入手できず生産は事実上ストップした。

昭和20(1945)年8月15日、ついに終戦を迎えた。鳥羽、山田、松阪、津、東京の各工場の生産は全面的に停止され、再開の目処も立たないまま、敗戦の日からすべての動きを止めた。従業員も、会社が全員を解雇して復帰希望者の中から残務整理要員だけを再雇用する措置をとったため、その多くが会社から去っていき、戦時中には1万人を数えた従業員も、わずか2,000人足らずに減少した。

同年9月に入ると電機部門の各工場はようやく再開したが、当面の仕事はGHQ(連合国総司令部)の指令により、山のような軍需用電機製品や半製品を破壊しスクラップ化することであった。

しかし、残った従業員たちは平和産業の名のもとに民需品転換への計画に着手し、終戦後わずか一月半後の同年10月1日には体制を整え、生産活動を再開した。11月には鳥羽工場が業界のトップを切って進駐軍より民需転換の許可を受けると、山田、松阪、東京の各工場(津分工場は閉鎖された)も相次いで民需転換の許可を受け生産のスタートを切った。

終戦後、空襲により焼野原となった各主要都市は交通インフラの復興が急務であったが、これに大きく貢献したのが同社の路面電車用走行モータと電気バスであった。電車用走行モータは直流機の中でも最も難しいとされていたが、並々ならぬ努力の結果昭和21(1946)年に完成し、約2年の間に東京都交通局をはじめ全国主要都市の交通局、私鉄などに1,000台以上が納入され、終戦直後の神戸製鋼所の経営を支えることになった。さらに、この実績が認められ運輸省鉄道総局から省線電車用モータを受注することとなった。

戦前、大量生産を誇ったポットモータは昭和21(1946)年に東洋レーヨン(現・東レ)に2,000台、翌年に4,000台を納入したのが戦後のスタートである。ここで注目されるのは、戦後逸早く鳥羽工場において電気冷蔵庫、扇風機、電熱器、電気掃除機、ミキサー、電気温風機、電気コタツ、ミシンモータ、電球といった家庭用電気機器の製作を開始し、この方面のパイオニアの役割を果たしたことである。

一方、松阪工場では電動工具、レジスター、フォノモータ、山田工場では小形貨物自動車(通称:小トラ)を製作し、これらの製品は世情が安定するにつれ次第に需要が増えていった。中でも、電動工具はこの頃には業界トップに立ち市場を独占する勢いであった。

鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史⑧

  • 工場に軍関係者が頻繁に訪れた

    前列左から3人目が田宮嘉右衛門社長、2人目が小田嶋修三

  • 竣工時の山田工場(現・伊勢製作所)(昭和16年)
  • 当時生産されていた家電品の製品カタログ

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