羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑨「羽幌炭砿鉄道の蒸気機関車」

石炭と炭鉱の人々の夢を載せて疾走する蒸気機関車

昭和16(1941)年12月14日、内陸の「築別炭砿駅」から鉄道省の羽幌線の「築別駅」に至る16.6kmを結ぶ羽幌炭砿鉄道が開通した。

そこには、羽幌炭砿創業時において鉄路の建設資材と機関車の調達にかかわる人々の筆舌に尽くしがたい苦労があったことを私たちは忘れてはならない。当時は戦時体制下であり、建設資材不足は深刻を極め、同時に機関車の調達にも大きな困難が伴った。

創業当時の保有車両は蒸気機関車2両、貨車1両。昭和17(1942)年度の乗客数は12,208人、貨物輸送量は91,575トン、1日の運行は4往復で、「築別炭砿駅-築別駅」間の運行に約2時間を要した。

初めて走行した機関車は鉄道省5860形(5861)蒸気機関車で、米国のブルックス・ロコモティブ・ワークス社製である。明治31(1898)年に(はん)(かく)鉄道(JR福知山線および阪急宝塚線の前身)により発注・建造された。大正7(1918)年に北海道に移された後、大正13(1924)年に廃車となり、学術用の目的で北海道帝国大学工学部に設置されていたものを羽幌炭砿鉄道が譲り受けた。この機関車は昭和26(1951)年まで稼働し、その後廃車(スクラップ)になった。

もう1両は、明治41(1908)年に製造された米国のアメリカン・ロコモティブ社製の1150形(1159)蒸気機関車である。昭和16(1941)年に名古屋鉄道局高岡機関区から払い下げを受け、昭和29(1954)年まで稼働し、その後廃車になった。

その後、昭和20年代後半以降の出炭量の飛躍的な増加に伴い、鉄道輸送能力の増強をはかるべく、昭和32(1957)年10月、国鉄から国鉄8620形(8653)蒸気機関車の払い下げを受けた。この時点での保有機関車は昭和18(1943)年購入の鉄道省9040形(9042)蒸気機関車、昭和24(1949)年、25(1950)年購入の国鉄8100形蒸気機関車(8114と8110)、それに昭和29(1954)年購入の鉄道省C11形(C111)蒸気機関車と合わせて5両であった。

昭和34(1959)年には、札幌鉄道局から同年廃車になった国鉄8620形(58629)形蒸気機関車の払い下げを受けた。同機関車は大正11(1922)年に日立製作所で製造され、東京鉄道局に配置された後、昭和7(1932)年に札幌鉄道局に配置されていたもので、昭和45(1970)年12月に羽幌炭砿鉄道が廃線になるまで稼働した。その後、「羽幌町勤労青少年ホーム」の敷地内に静態保存されていたが、平成21(2009)年に解体された。

昭和33(1958)年8月1日、ヤマの人々にとって待望久しかったディーゼルカーが登場し、1日5往復の運行を開始した。

羽幌炭砿鉄が道開通20周年を迎えた昭和36(1961)年度の乗客数は約60万人、貨物輸送量は約100万トンで、およそ3億円の収益をあげ、当時の国鉄最高の黒字線であった山手線に匹敵するほどの営業係数を誇ったという。「築別炭砿駅-築別駅」間の運行時間もディーゼルカーの運行により29分に短縮された。

羽幌炭砿鉄道は炭砿の閉山(昭和45年11月2日)の翌月12月14日、「さよなら羽幌炭砿」と車体に書かれた蒸気機関車と「お別れ列車」の飾り付けがなされたディーゼルカーが相次いで「築別炭砿駅」を発車し、29年の鉄道営業の歴史に幕を下ろした。

羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑩「羽幌炭砿鉄道のディーゼルカー」

  • 5860形蒸気機関車(当時)
  • 築別炭砿貯炭場の横を疾走するC11形蒸気機関車(当時) 
  • 8620形蒸気機関車(平成19年頃) 

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