⑤本柳寺

創業時の拠点、本柳寺付近

明治39(1906)年に、本柳寺前の空き家に日本セルロイド人造絹糸会社設立総会の看板を掲げた。当時文明開化を表す事業の看板は町の話題をにぎわしたと伝えられている。

そして工場地の買収を進めるが中々進展せず、地元の誘致委員長である山内助役は、永念寺に地主一同を集め、「すべからく今後の網干は、船積稼業や漁業のみに重きをおいては到底発展の見込みはない。網干発展の百年の大計上見送ることのできない町繁栄の基であるから、思い直して賛成してもらいたい」と地主に協力を求めた。

工場の埋立工事は鈴木商店の松田茂太郎が担い、神戸の田中組に請け負わせ、事務所を本柳寺あたりに設けた。沖の砂採取、荷揚げ、トロ押しに日々、百数十名の人々が付近から働きにきた。

網干写真年鑑(昭和33(1958)年版)には創立記念日について「回顧せば、時は明治42(1909)年2月20日、この日は実に我らが故郷、網干地方にとり郷土史に牢記し、子孫我が久遠に記念の慶祝の日である」と記している。

  • 本柳寺
  • 本柳寺前の通り

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