辰巳会・会報「たつみ」シリーズ⑧「第8号」をご紹介します。

2020.7.26.

たつみ第8号表紙.png「たつみ第8号」は、"新春号"として昭和43(1968)年1月15日に発行されました。同号にも金子直吉を偲ぶ投稿が幾つも紹介されました。

◇「金子さんの話」 森本準一

 鈴木商店の発展を資金面で全面的に支えた台湾銀行第4代頭取・中川小十郎から特命を受け、鈴木への貸出し資金の調査や鈴木の組織改革のため同行神戸支店に派遣され、其の後、鈴木商店に転籍し、神戸製鋼所常務や日本エヤーブレーキ社長を歴任した筆者が、鈴木に入社した若き日、金子直吉と毎日のように親密に接した思い出を綴っています。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「私の足跡を省みて ~故金子直吉翁にお目にかかった印象~」 酒井 温

 鈴木商店経営の台湾の製糖会社「東洋製糖」から大正5(1916)年、神戸製鋼所へ転籍した筆者が、台湾での製糖の経験を買われて度々金子直吉の呼び出しを受け新規事業の相談を受けた。樺太のツンドラの事業化では、水分の搾出・乾燥に苦労し、事業化に至らなかった。また、海水から塩を取り出す研究を命じられたが、工業的に採算がとれる見通しが立たなかった。いずれも金子の期待に沿う結果が得られなかったが、若輩の自分に対し金子の滋味に溢れる態度の中に鋭さを感じたことが印象的だったと述懐しています。

 筆者の製糖事業の経験を生かし、神鋼は製糖機械メーカーとして国内外に数々の実績を挙げ、産業機械の国産化を進めて機械メーカーとしても確固たる基盤を築いた。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

 このほかにも柳田義一による「金子直吉」では、金子の生い立ちから生涯を振り返っている。最晩年、鈴木を追われた金子は、太陽産業相談役としてお家再興を図ったが、生涯、鈴木商店の番頭であり得なかったという金子の無念さを感じたと記しています。

◇「句集 武者絵の凧」 柳田義一 

 本号トピックスとして、「たつみ」編集人を務める柳田義一が出版した「武者絵の凧」と題する句集の出版記念祝賀会が生田神社広間で催され、各界の名士が柳田氏の労を称えたことが記されています。さらに「松方金子物語」の著者・藤本光城が感想を寄せています。(詳細は、下記の関連資料をご覧ください。)

◇「韓国政府から故西川玉之助氏へ感謝状」

 朝鮮の民族主義者・安重根(あんじゅうこん;朝鮮語読み アン・ジュングン)が明治42(1909)年10月、時の初代韓国統監・伊藤博文を満州ハルピン駅構内で暗殺した「伊藤博文暗殺事件」では、安は、その場で逮捕され、旅順で裁判に付され処刑された。処刑の前日、当時翻訳官として従軍していた西川玉之助氏へ謝意として墨蹟(肉筆の書)を残した。

 故人となった西川の意思を尊重し、柳田義一他によって昨年・昭和42(1967)年、同書を韓国政府に贈呈したところ、この程韓国政府より感謝状が贈られたとの報告。

 安重根は、今日、韓国では抗日闘争の英雄とされ、国民的英雄と称えられている。安の絶筆となった墨蹟は、獄中で関わった看守(日本人)をはじめ、何人にも残している。西川玉之助は、関西学院普通学部教授から日露戦争に出征し、通訳官として徴用されたことから、安重根の事件にも携わったもの。

 西川は、再び関西学院に復職し、初代中学部長を最後に実業界に転じ、鈴木商店に入社。鈴木系の日沙商会支配人、東京毛織日本冶金東洋ファイバー各社の役員を歴任した。(詳細は、下記の関連資料をご覧ください。)

◇「ある日」金子武蔵

 金子直吉の次男で東京大学教授を務めた哲学者の筆者が、退官して間もなく、用談があり幼少時を過ごした神戸を訪れた。宿を取った波止場に近いホテル(オリエンタルホテルか?)は、昔オヤジ(直吉)がよく外人との商談やパーティーに利用していた、また海岸に近い商館風の鈴木の建物にはよく遊びに訪れ、悪戯をしてはボンさんたちを困らせたことなど、ありし日々を懐かしく回想しています。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

 

 

 

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