辰己会・会報「たつみ」シリーズ⑤「第5号」をご紹介します。

2020.4.17.

20191206_205646たつみ第5号(表紙).jpg 花鳥風月を古代の染色技法により織り込んだ美術織物「古代裂(こだいぎれ)」が表紙を飾った"たつみ第5号"は、昭和41年7月1日に発行されました。本号の扉には、東須磨の鈴木本家での珍しい記念写真と金子直吉の「天下三分の宣誓書」が載っています。(詳細は、下記の関連資料をご覧ください。)

◇辰巳会だより

 前秋の叙勲を祝し開かれた辰巳会本部忘年会に続き東京辰巳会新年会を始め、名古屋、西日本(小倉)各支部で相次いで開かれた新年会の模様が記されています。また、同年5月10日には辰巳会全国大会が京都天竜寺に会員約200名の参加を得て開催されています。前年、雑誌「文学界」に連載された作家・城山三郎の小説「鼠」が文芸春秋社から出版されたのを機に、著者・城山三郎を同大会に招き、著作についての講演を聞いた全てのカネタツ人が鈴木の潔白が明かされたと感銘を受けたことが記されています。(「辰巳会京都全国大会」)

◇会員の投稿から

 本号にも鈴木商店時代の思い出について、つい昨日の出来事のように詳細に生き生きとした投稿が寄せられているほか、前号に続き、金子直吉の次男・武蔵の自叙伝が掲載されています。

〇「思い出の中から」  山地 孝二

 筆者は、金子直吉・柳田富士松両氏の特命を受けて世界各地に出張する"移動出張員"で、大正7(1918)年当時、シンガポール、仏印(フランス領インドシナ;現在のベトナム、ラオス、カンボジア地域)を出張の後、ジャバ(インドネシア)に入り、スラバヤを拠点にサトウキビプランテーションへの化学肥料販売調査に当たっていた折、南洋製糖会社の出張員に協力し、現地スモンコウ製糖工場買収交渉に当たれとの金子の電令を受けた。同工場の売却の噂は広く知れ渡り、オランダの商社、日本の明治精糖が行動を起こしており三つ巴の競争になったが、南洋製糖が買収に成功し、開場式に漕ぎ着けたことを回想している。当時は鈴木商店の海外発展の黎明期で、筆者の他にも世界各地で金子の内命を受けて旅をしている人々に出会ったと懐かしむ。(詳細は、下記の関連トピックスからご覧ください。)

〇「鈴木商店と再生ゴム」  足立 宇三郎

 筆者は、鈴木商店ゴム事業のエキスパートとして、大正5(1916)年入社間もなく神戸・岩屋にあった東レザー敏馬分工場(ゴム工場)へ派遣され、爾来ゴム事業一筋に多くの実績を残している。同工場は、ファイバー(硬質繊維板)工場を創設し、ボルネオ島サラワクのゴム農園と合併、東レザーより分離して「日沙商会」に発展した。

 東レザー敏馬分工場は、日沙商会ゴム工場となり、再生ゴム事業に乗り出した。我が国では、ダンロップに次ぐ再生ゴム事業であった。然し、当初は採算が取れず期待した成果が得られなかったが、生ゴム市況高騰により一時は順調に推移した。その後、マレーでの生ゴム生産制限が撤廃されると市況は暴落し、鈴木の再生ゴム工場は閉鎖に追い込まれた。

 これに先立ち日沙商会は、ゴム部を分離して日輪ゴム工業(現・ニチリン)を設立、ファイバー部も東洋ファイバーに発展した。日輪ゴム工業の工業製品製造の継続の可否を巡って意見の相違から日沙商会を退社することになった筆者は、友屋ゴム製造所なる事業を興し、単独で再生ゴム事業を継続。こうして鈴木の再生ゴム事業が東洋ゴム工業に発展し、筆者も東洋ゴム工業の経営に加わり、今日の大手タイヤメーカーの一角を占めるに至ったと振り返っている。 (詳細は、下記の関連トピックスからご覧ください。)

〇「わが心の自叙伝(2)」 金子 武蔵

 金子直吉の次男で哲学者、元東京大学教授武蔵氏による自叙伝の続編。大正5年当時、金子一家が住んだ「一の谷山荘」と呼ばれた須磨一の谷時代前後の回想を綴っています。武蔵氏の兄(長男)・文蔵氏は、ほどなく金子の故郷高知の小学校に転校したため、妹(長女)常子と専ら子供部屋で過ごすことが多かったと。

 一の谷に移る以前に住んだ二の谷時代の武蔵氏は、地元の幼稚園に通い、次いで須磨寺に近い小学校に通っていた。氏の度を超す腕白ぶりは想像以上で、当時、生まれて間もない子ぐまが贈られて来たことに狂喜し、この子ぐまと遊ぶさまが面白おかしく語られる。直吉の 故郷から届くヤマモモ(果物)をジイやんのすきを見て与えてしまったり、子ぐまを池に投げ込んだり、子ぐまに犬の首輪をつけて鎖をひいて海岸に連れ出しては水泳や魚釣りの伴をさせて人騒がせな日常であったと。また、ロバもいたのでむやみに周辺を乗り回したりもした。さらに家から海岸までのゆるやかな傾斜に敷かれていた工事用のトロッコに乗り、トロッコを暴走させ完成した門扉を大破させてしまった。このトロッコは、二の谷川を埋め立てるものであった。

 大正2年秋頃より住んだ 一の谷山荘には、殊の外思い出が残っている。ここでも氏の腕白は収まらず、生まれて間もないワニが贈られてきたが、温室の水槽にいたワニが珍しく竹でつついて殺してしまったと。また、同居していたジイやんを怒らせ、松の木に逃げた挙句、樹上からジイやんに放尿した。こうした氏の気質は、父・直吉譲りであろうと述懐している。

 父・直吉については、中年過ぎてから消化器系のほか耳鼻咽喉科の疾患に煩わされていたことを記している。しかし意志の強さは「狂」がつくほどで、父の短所であり、長所でもあったようだ。また父は、自分が正規の教育を受けられなかったため、却って教育を高く評価し、俸給を割いて次々に書生を養い、希望するどこの大学でも入学させていたと父の思い出を語っています。(詳細は、下記の関連トピックスからご覧ください。)

◇大阪朝日神戸版掲載(昭和41.4.3)    "鈴木商店の倒産後40年"

 大正7(1918)年8月12日に起こった神戸の米騒動による「鈴木商店焼き打ち事件」の引き金とも云われた一連の報道を載せた大阪朝日新聞が、鈴木商店破綻(昭和2年4月2日)から来年が40年の節目を迎えることから、"鈴木商店の倒産後40年"と題する特集記事を掲載しています。

 同記事では、鈴木の米買占めの真相について「(鈴木は)米不足を補うための政府の指定商として海外から米を輸入して倉庫に保管していたことにあったらしい。」さらに「大正三年ごろ豊作続きのため米があまり、米価が下がったので、政府の命を受けた鈴木商店が米価の安定をはかるため過剰米を海外に輸出していた。この印象が市民の間にあって輸出のための買占めと誤解されたという。」と結んでいます。

 米騒動当時の朝日の報道は、調査不足のまま掲載したことは明白で、"執拗な鈴木商店攻撃により鈴木を悪者に仕立て、風評を煽った"(城山三郎)ことが明らかになった。昭和39年、作家・城山三郎が雑誌「文学界」に「鼠」を連載し、鈴木商店の潔白を証明し、昭和41年には、文芸春秋社より文庫本として出版が決まると、朝日に対する批判がますます高まることから、世間の批判をかわすため1年も前倒しに本特集を掲載したのは、事実上の訂正記事と考えられる。もし、当時、上記のような報道がなされていたら、歴史は大きく変わっていたかも知れません。この朝日の記事は、当時の辰巳会にとって如何に重大な報道であったか想像に難くありません。(詳細は、下記の関連資料をごらんください。)

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