辰己会・会報「たつみ」シリーズ④「第4号」をご紹介します。

2020.4.10.

20191206_203007たつみ第4号(表紙) - コピー.jpg たつみ第4号は、昭和40(1965)年12月1日に発行されました。会員の「たつみ」に対する関心は益々高まり、会員および会員の親族からの投稿が多く寄せられるようになりました。

 また、前年に続いて昭和40年度春の叙勲には辰巳会会員9名、さらに同年6月発表の藍綬褒章には2名の受章が発表され、受賞者祝賀会が辰巳会により盛大に執り行われたことが報告されています。

◇「金子直吉翁を偲ぶ」   永井幸太郎

 尊敬と親しみと信頼を今なお持ち続けている永井幸太郎が"師父"と仰ぐ金子直吉を偲んで、優れた指導力と豊かな人間性を併せ持つ金子の事業に取り組む姿勢に関する投稿をしています。鈴木商店が興した数々の事業は、金子の先見性と事業欲から実現したが、金子は"思慮周密、注意周致"であったと云います。全てにおいて用意周到な準備のうえ実行に移していたと。

 大里に製糖所を建設するに当たっても、北九州の一角、大里の地が有利であったことを見抜かれたのは当然のこと、当時の製糖事業の競争者が香港のジャーディン・マセソンの製糖所と知ると、金子は密かに人を香港に派遣して同製糖所の煙突の煙の出る日数、時間を報告させ、上海その他各地へ砂糖を積み出す積荷の統計を取らせてジャーディンの生産量や輸出量を掴んでいた由。

 さらに当時の薄荷の競争相手が米国の某州にあると、若手社員を米国に留学させ、米国の薄荷の出来高を刈り取りを待たずに報告させていた等々、事業の推進には周到な注意を払っていたと永井は述懐しています。(詳細は、下記の関連資料をご覧ください。)

◇「わが心の自叙伝 (1)」    金子武蔵

 金子直吉の次男で、哲学者、倫理学者の金子武蔵氏は、東京大学倫理学科教授、文学部長を務め、昭和40(1965)年退官。ヘーゲル研究やサルトルなど実存主義の研究者として知られるが、退官を機に自身の自叙伝を寄せています。

 東大在職中、金子の前任者で独特の体系的な倫理学「和辻倫理学」で知られる和辻哲郎との交遊関係の他、授業以外に体験した幾つかのトラブルや事件についての記述に続いて、自身の幼少期の思い出を綴っています。明治38(1905)年生まれの金子が生まれ育ったのは、2年前に住友樟脳製造所を買収した直営樟脳製造会社兼工場(雲井通5丁目)の社宅であったと。この社宅には、4~5年住んだだけだが、金子直吉家族5人の他に書生時代の小野三郎などの書生が数人一緒に暮らしていた。

 この当時、父直吉は、先代鈴木岩治郎亡き後、樟脳の責任者となり、この樟脳会社の管理に当たる一方、栄町3丁目の本店の番頭として通勤していたと記しています。4~5年後、雲井通の社宅から住吉の海岸沿いに転居、その翌年には、須磨一の谷に転居した由。

 父直吉は、次男の武蔵氏をも実業人に育てたかったようだと述べています。小学校6年生の武蔵を大日本セルロイド・網干工場に見学に行かせたり、中学生の時には、鳴尾の製油工場(後の豊年製油鳴尾工場)の見学を命じたりした。やがて直吉が渋々認めた東大哲学科を出て結婚した後、昭和15年夏、直吉に東京以北で経営する事業を視察するよう指示され、草津の万座硫黄や北海道の羽幌炭砿を視察したとある。晩年の直吉には、わずかの手兵しか残っておらず、手兵の一人として自分を起用したかったのかも知れないと述懐しているのが印象的です。(詳細は、下記の関連資料をご覧ください。)

◇「辰巳会叙勲並びに褒章受賞者祝賀会

 昭和40(1965)年6月29日 東京「クラブ関東」において本年度の叙勲および藍綬褒章受章者(11人)に対する祝賀会が催され、辰巳会会員85名の出席を得て慶祝の乾杯が挙げられました。

 高畑誠一(勲三等瑞宝章)、佐々木義彦(勲三等旭日中綬章)、小田嶋修三(勲四等旭日小綬章)、勝屋利秋(勲三等瑞宝章)、賀集益蔵(勲二等瑞宝章)、六岡周三(勲二等瑞宝章)、大幡久一(勲四等瑞宝章)、竹田儀一(勲二等旭日重光章)、大屋晋三(勲二等旭日重光章)、山本錬造(藍綬褒章)、曽我野秀雄(藍綬褒章)

◇「日本での人絹用ポットモーターはこうして生まれた」   別所金之助

 大正5(1916)年、鈴木商店によって設立された"(株)鳥羽造船所"では、翌大正6(1917)年に電機工場を建設して電動機の開発に着手。電機工場の建設当初より参画し、その後営業を担当した筆者は、同じ鈴木商店系の東レザー内で研究中の特殊電動機の開発要請を受けた。

 東レザーの研究こそ人造絹糸の開発であり、その後の帝国人造絹糸の人絹製造に欠かせないポットモーターの製造依頼であった。毎分5,000回転、1/4馬力という当時では実現困難な課題を乗り越え、どこの電機メーカーも成し得なかった特殊電動機"ポットモーター"を完成した。折しも本格的な人絹製造に乗り出す帝国人造絹糸では、新設の岩国工場の製造ラインにポットモーターの据え付けが決まり、創業期の鳥羽造船所にとって大量注文であったばかりか、帝国人造絹糸にとっても重要部品の調達が可能となった。岩国工場竣工時には、ポットモーターの回転数は16,000回にまで改良され 鳥羽造船所は、帝国人造絹糸から多大な賞賛を受けた由。鳥羽造船所の電機事業の育ての親・小田嶋修三の下でポットモーターの開発に携わった筆者は、京都電気鉄道(京都市電の前身)より小田嶋に請われて鳥羽造船所の電機事業に加わり、その発展を支えた功労者であった。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

 たつみ第4号の表紙を飾るのは、二代目鈴木岩治郎の遺品で、我が国洋画壇の草分けの山本芳翠画伯の作品「猛虎逍遥図」。この作品は1965年、神戸市立王子動物園の迎賓館に寄贈された。その後、神戸市立博物館に移管され、現在に至っている。。

 

 

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