辰巳会・会報「たつみ」シリーズ①「創刊号」をご紹介します。

2020.2.26.

20190923_100107たつみ創刊号表紙.jpg鈴木商店親睦組織「辰巳会」が昭和36(1961)年に発足されてから3年後の昭和39(1964)年5月、辰巳会の活動および辰巳会会員の動静を記録するため、会報「たつみ」が発刊されました。年2回発行を目標にスタート。

「たつみ」誌は、平成26(2014)年9月の第77号まで発行されましたが、鈴木商店の活動を知る貴重な資料です。特に創刊号から第25号位までは、実際に鈴木商店に勤務したOBの投稿が多く、鈴木商店関係者を通じて鈴木商店の知られざる側面を知ることができます。「たつみ」誌各号のトピックスをシリーズでご紹介いたします。

創刊号は、辰巳会会長の高畑誠一氏の題字と「発刊の辞」により始まっています。高畑会長は、鈴木に席を置いた各自は年を取り、引退の時期に近づいた人が多くなるにつれ懐旧の情を想起すると述べ、会報・たつみ発刊により会員の消息が分かって、会合で親密の度を増したいものと期待を寄せています。

なお、同号表紙絵は、お家さん・鈴木よね自画の"宝珠玉屏風絵"で昭和8(1933)年、六甲山荘避暑中に描かれたもので、これをもとに塗彫り衝立にされ鈴木家の玄関に備えられていたと記されています。

◇「辰巳会誕生の由来記」   十河一正

 辰巳会発起人の一人・十河一正氏が、「辰巳会誕生の由来記」を投稿。昭和34年、鈴木商店貨物課に在籍していた筆者ほか数名の発案により、太陽鉱工・橋本隆正専務の賛同を得て昭和35年10月7日、神戸国際会館において「西日本辰巳会」が発足。翌昭和36年4月3日、既に発足していた「東京辰巳会」と統合し、各地に支部を設けて正式に「辰巳会」全国組織が発足したとの経緯を記述している。

このほか、辰巳会正会員(鈴木商店OB)によりお家さんや金子直吉の思い出、金子の偉業を偲ぶ記事が多数掲載されています。

◇「サラワックの思い出」    宇津木亥一

 鈴木商店の代表的な海外事業会社としてボルネオ・サラワク(現・マレーシア・サラワク州)にゴム栽培を中心に事業を展開した「日沙商会」に赴任した筆者が、当時を回顧して思い出を綴っています。鈴木破綻後、太平洋戦争の最中の昭和18(1943)年から約3年間、日沙の社員として、現地で軍に協力して資源開発に当たった想像を超える体験談を記しています。(詳細は、下記の関連資料をご覧ください。)

◇「金子さんの思い出」     住田正一

 金子直吉の秘書を永く勤め、鈴木破綻後は国際汽船、東京都副知事を歴任し、終戦後呉造船所の社長、会長を務めた筆者が、金子直吉の人となりをエピソードを交えて紹介しています。(詳細は、下記の関連資料をご覧ください。)

◇「カネ辰の暖簾」    中村勇吉

 昭和37(1962)年4月2日、辰巳会大会(全国大会)が開かれた際、鈴木破綻以来、永らく鈴木家の蔵に収められていた鈴木商店の暖簾が披露された。参加者全員が感激して熱烈な拍手を送った。この暖簾のカネ辰マークは、著者が勤める「鈴木薄荷」の薄荷脳、薄荷油の商標に蘇っている。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「エネルギー資源についての鈴木の歩み」  金子三次郎

 金子直吉の実弟・楠馬の婿養子となり、「帝国炭業」や「羽幌炭砿鉄道」など鈴木商店の炭鉱事業を推進し、鈴木破綻後には樺太・ツンドラ事業にも携わった筆者が、鈴木のエネルギー資源の取り組みについて振り返っている。第一次世界大戦の戦時景気による利益蓄積によって資金運用に余裕が出来た鈴木商店が、その前後から水力発電、石炭、石油などのエネルギー資源に本格的に進出したと分析する。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「金子直吉翁20年祭に臨みて」 柳田義一                                 

「たつみ」発刊に先立つ同年2月27日に「金子直吉20年祭(没後20年祭)」が神戸・オリエンタルホテルにおいて辰巳会会員154名の出席のもと執り行われたとの柳田義一氏の記事が掲載されています。神戸・生田神社宮司の音吐朗々な祝詞(のりと)により荘厳な祭典が行われ、金子直吉の「天下三分の計」の書簡の一節や、俳句数句を女性の美声により奉納されたと記されています。

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