鈴木商店こぼれ話シリーズ㊶「鈴木商店を支えた協力企業」をご紹介します。

2019.8.27.

鈴木商店は、金子直吉の「生産こそ最も尊い経済活動」という信念のもとに「煙突男」と揶揄されるほどまっしぐらに工場建設に邁進し、傘下企業のほとんどが生産工場であり、鉄鋼、造船、石炭、化学、繊維から食品に至るまで80社を超える一大コンツェルンを形成した。これら工場群の建設を担った協力企業をご紹介します。

◇前田組

 PA253342-thumb-130x130-2805前田金次郎.jpg前田組は、鈴木商店が関門地区に展開したコンビナート建設に深くかかわった企業であった。前田金次郎が大里の地に創業した「前田組」は、明治36(1903)年から始まる鈴木商店の関門進出当初より工場建設に携わった。とりわけお家さん・鈴木よねの信任厚く、大里製糖所(現・関門製糖)、大里製粉所(現・日本製粉)、帝国麦酒(現・サッポロビール)、日本酒類醸造(現・ニッカウヰスキー門司工場)、日本金属・彦島精練所(現・彦島精錬)の建設を相次いで請け負った。

 大里製粉所建設に際し、上棟式に関係者に配布したメモ資料には、請負人として前田金次郎の名前が技師長・米田龍平、設計技師・林栄次郎他と共に記載されている。

 鈴木商店の飛躍とともに事業を拡げたが、大正後期の世界的な不況到来を予期して一切の事業から撤退し、大正末期に廃業した。        地域特集>大里⑤前田組

◇池田組

 池田源次.jpg土佐高岡郡新荘村(現在の高知県須崎市)出身の池田源次が同じ土佐出身の金子直吉の知遇を得て、大里製糖所の荷役業務に従事、やがて明治37(1904)年大里本町に池田組を創業して鈴木商店との結びつきを強めた。

 大正末期に前田組が撤退した後は池田組が建築に比重を移し、帝国人造絹糸をはじめ鈴木系企業の建設を請け負うことになった。鈴木商店が彦島にもコンビナート建設を展開すると日本金属・彦島精練所(現・彦島精錬)等の建設にも携わるほか、帝国人造絹糸の岩国工場建設に関わるようになる。

 鈴木商店破綻後は、帝人の三原工場をはじめ次々に帝人の各工場の建設に従事するようになり、今日の池田興業の土台が形作られた。

◇大本組

 百松.jpg大本組創業者・大本百松は、明治24(1891)年、岡山県浅口郡連島町(現在の倉敷市)鶴新田に生まれ、明治40(1907)年、独力で土木請負業に踏み出し、広島県因島にて三上英果氏(播磨造船所技師長)の知遇を得、大正7(1918)年、同氏の招請により相生に移り、この地に本拠を置いた。播磨造船所の指定請負人となった。

 大正7(1918)年、米騒動で鈴木商店が焼き打ちされ、店主・鈴木よねが避難していた須磨の屋敷にも民衆が押しかけた。大本百松は、仲間を率いて相生から須磨に駆けつけ、屋敷を守るとともに民衆を説得した。鈴木よねは大本を評価し、鈴木商店が投資する発電所等の土木工事を大本組に発注、大本組は事業を拡大していった。

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◇三輪組

 三輪徳太郎.jpg三輪運輸工業は、明治21(1888)年に三輪徳太郎が神戸・脇浜に創業した貨物陸揚げ運搬業「三輪組」を起源とし、鈴木商店とは、鈴木が洋糖引取商だったことから取引があった。

 神戸製鋼所初代支配人だった田宮嘉右衛門との出会いから、同社の原材料の荷揚げ運搬、製品の積み出し荷役から土木工事など請負業者として指定された。

 三輪組は神戸製鋼所とともに、特に田宮嘉右衛門の信頼を得ながら発展してきた。事業伸長に伴い、大正14(1925)年に合資会社三輪組に、昭和23(1948)年に三輪運輸工業株式会社に改組し、総合一貫物流事業者として大きく発展して来た。

ご協力企業>三輪運輸工業

◇鈴与

 播磨屋与平 - コピー.jpg享保元(1801)年、鈴木与平が創業した回漕業「播磨屋」を起源とする「鈴与」は、200年を超える社歴を有する静岡を代表する国内・国際物流サービス事業者である。(画像は、三代播磨屋与平)

 鈴与は大正期には鈴木商店系の大日本塩業の代理店として原塩を輸入していた。大正7(1918)年頃、凶作と塩の専売制が公益専売に移行したことにより国内の塩の生産量が激減し、諸工業の勃興による塩の需要の高まりを受けて、清水港においても鈴木商店の取扱う関東州塩(中国・遼東半島)の輸入が急増。ただし海外塩は粗くかつ色も悪いため、再製塩工場が必要となり、専売当局の勧めもあり、鈴与が再生塩工場を設立した。

 鈴与は、大正7(1918)年の清水港地域の石炭取引において約37%のシェアを占めていた。一方、清水港の石炭の受入は27万トン、そのうち12万トンが鉄道用炭で、2万トン弱が鈴木商店製油所向けであり、地理的な関係もあり鈴木商店製油所(後の豊年製油、現・J-オイルミルズ)向けにも納入があった。鈴与二百年史によると、昭和3(1928)年の鈴与の豊年製油向け石炭の取扱量は、1月から7月までの7か月間に1万3千トン、即ち年間約2万トンの取引があったと推定している。一方、石炭の調達面でも鈴木商店系の帝国炭業とも取引があった。

◇橋本店

 20190113_095448橋本店 - コピー.jpg明治11(1878)年、橋本忠次郎によって宮城県仙台市に創業した「橋本店」は、建築・土木施工の分野で実績を積み上げ、平成30(2018)年、創業140年を迎えた。同社の第2代社長・橋本信次郎の時代の大正6(1917)年に本社を東京築地に移転したことから鈴木商店との接点がうまれた。(写真は第2代社長・橋本信次郎)

 創業者・忠次郎が亡くなる2か月ほど前、本社を東京に移転する2年前の大正4(1915)年、同社は神戸製鋼所から脇浜海面埋立工事を請け負った。神戸製鋼所では、第一次大戦による造船ブームから船舶用大型鍛造品の注文に応じる新工場用地を海上に計画したもの。

 海面埋立工事は、第一次から第四次まで及び、大正8(1919)年までの長期工事となり、新工場のための引込線(小野浜停車場)の拡張工事ほか関連工事も請け負った。

 折しも鈴木商店では、硬化油事業を本格的に展開しており、大正5(1916)年に鈴木商店製油所兵庫工場を稼働し、硬化油の量産化を開始した。

 さらに製油事業の事業化を進める鈴木商店は、南満州鉄道(満鉄)が経営する「大連油房」を譲り受け、「鈴木商店大連工場」としたほか、国内にも工場を建設して製造能力を倍増させ、製油を国家的な事業に育て上げることを条件とされたことから、内地での工場建設が急務となった。

 神戸製鋼所関連工事の実績を高く評価された橋本店は、大正5(1916)年、鈴木商店清水製油所の建設を請け負った。清水工場の建設は、建設業への脱皮を図る橋本店にとっての初めての大工事であり、同社初の鉄筋コンクリート工法であった。

 清水工場の大事業の実績を背景に橋本店は、鳴尾、横浜、保土ヶ谷、王子の各製油工場建設と関連工事を請け負った。これらの工場のうち、大連、清水、鳴尾、横浜は、後の「豊年製油」として独立、兵庫、保土ヶ谷、王子の各工場は、後に「スタンダード油脂」を経て「日本油脂(現在の日油)」となった。 鈴木商店清水製油所(橋本店140年史)

 こうした鈴木商店との繋がりは、建設業としては実績の乏しかった橋本店を大きく飛躍させるきっかけとなった。橋本店は、昭和22(1947)年、第3代社長・吉田英一の時代に再び創業の地・仙台に本社を移し、今日に至っている。

橋本店公式サイト

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