鈴木商店こぼれ話シリーズ⑯「鈴木商店のツンドラ事業を後押ししたのは三島由紀夫の祖父平岡定太郎」をご紹介します。

2017.10.29.

814d0a4b9463cbb79927a0cfb5912e9e平岡定太郎.jpg日露戦争後、樺太全島を領有することになった明治政府は、樺太庁を開庁、首相桂太郎、後藤新平、杉山茂丸(政治運動家、実業家)等は、金子直吉を招き樺太の開発検討を要請。金子の台湾での功績を評価しての依頼であった。

鈴木商店は、政府が軍艦「春日」を樺太に派遣した際、田丸亭之助(後の文部大臣)の従者として社員を便乗させ、樺太の実地調査を行い、第三代樺太庁長官・平岡定太郎よりツンドラ(永久凍土の泥炭地)の採集権を獲得。鈴木商店としてツンドラの事業化を試みるも、90%近く水分を含むツンドラの脱水加工に思いのほか苦戦した。

極地のツンドラと多少異なり樺太のツンドラは、永久凍土に広く存在し、北海道の泥炭地に似た特質がある。

金子直吉の並々ならぬ熱意により巨額の研究費用を投じてツンドラの資源化を図った。鈴木破綻後、金子は昭和14(1939)年、資本金100万円の「樺太ツンドラ工業」を幌内川流域の佐知に設立。竹田儀一(後に 国務大臣、厚生大臣を歴任した後、神鋼商事社長)を社長に、金子三次郎(後に羽幌炭砿鉄道・専務)を専務に起用して、事業化に乗り出した。

昭和16(1941)年には、横浜子安に研究所を設け、さらに昭和18(1943)年には、資本金を400万円に増資。軍需用、建築用、保温材用としてツンドラ板30万枚の生産を実現し、事業化に光明が見えた最中、昭和19(1944)年に金子は志半ばで旅立った。

金子直吉のツンドラ事業に賭けた熱い思いを詠んだ句が俳号「片水」名で残されている。

◇ツンドラや神代ながらの草の色    片水

◇ツンドラや(くさび)する野の神々し     片水

金子直吉の樺太開発に賭ける熱い思いは、ツンドラの商品化に向けて歩み出した。明治42(1909)年12月20日付で第三代樺太庁長官・平岡定太郎よりツンドラ採取許可書が交付されると鈴木商店は、樺太敷香町佐知に脱水工場を設けて事業化に取り組んだ。

平岡定太郎(文久3(1863)年~昭和17(1942)年)は、内務官僚出身で、福島県知事(第17代)を経て樺太庁長官(第3代)に就任。王子製紙の大泊への誘致を図るなど樺太の製紙、林業の発展に寄与したことから"樺太拓殖の父"と呼ばれた。ツンドラの開発についても関心を寄せたものと思われる。この時の鈴木商店との関わりから後年、平岡は鈴木商店系の「南洋製糖」(工場はジャワ島)の代表取締役に就任している。

ツンドラの脱水加工に思いの外苦戦し、事業化の目途は容易には立たなかった。試行錯誤を重ね、本格的な事業化のための「樺太ツンドラ工業」を設立したのは、鈴木破綻後の昭和14(1939)年のことであった。

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