羽幌炭砿のあゆみシリーズ ~Ⅵ.エネルギー革命との闘いと閉山~を掲載しました。

2015.9.22.

unnpantatekoumakiagetouwoaogimiru.PNG羽幌炭砿の歴史を紹介するシリーズの7回目、いよいよ今回がシリーズの最終回となります。この最終回では昭和37年~45年までの「エネルギー革命との闘いと閉山」をご紹介します。

昭和37(1962)年10月には石油の輸入が完全に自由化され、エネルギー革命は一気に加速していきます。羽幌炭砿はビルド鉱として生き残りをかけ、運搬立坑、新選炭工場、排気立坑建設などの各種合理化策を推進していきました。

築別炭砿では昭和39(1964)年以降、炭質の悪化に伴う歩留まりの低下が進行。しかし、会社は合理化の手を緩めることはなく、離山者が増加する中、昭和40年度から4年連続して出炭量100万㌧超えを達成し、全国石炭業界注視の的となります。

しかし襲いかかるエネルギー革命の荒波には抗し難く、一企業の経営努力では如何ともし難い状況となり、羽幌炭砿の労使は国の「企業ぐるみ閉山制度」適用による閉山を選択しました。そして羽幌炭砿はついに昭和45(1970)年11月2日、閉山を迎えました。1万人を超える炭鉱の住人は、突然長年慣れ親しんだ街・我が家を断腸の思いで立ち去らざるを得なくなくなりました。

写真は、閉山の5年前、昭和40(1965)年6月に17億円を投じて完成した、運搬立坑巻き揚げ塔の現在の姿です。

詳しくは下記の関連記事をご覧下さい。

地域特集>北海道(羽幌)>羽幌炭砿のあゆみ ~Ⅵ.エネルギー革命との闘いと閉山~

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