帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ③「製油事業」(調査書P18~23)をご紹介します。

2024.6.21.

「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの3回目です。

dairenkoujyou.png明治後期~大正初期、鈴木商店は北海道、朝鮮から集荷した魚油を直営の魚油精製所にて精製して欧州等へ輸出していたことから金子直吉は大豆油にも注目し、大豆搾油の研究のため大豆の一大産地である大連(中国)に人を派遣しました。

その結果、南満州鉄道(満鉄)が満鉄豆油製造場(大連油房)にて「ベンジン抽出法」による大豆搾油の商業化を試みていることが判明しました。

大正4(1915)年9月、鈴木商店はこの満鉄豆油製造場を譲り受けて「鈴木油房」(大連工場)(上の写真)とし、さらに大正6(1917)年には清水、大正7(1918)年には鳴尾(兵庫県)と横浜に製油工場を建設しました。鈴木商店はこれら4工場を大正11(1922)年4月に分離独立させ、豊年製油(現・J-オイルミルズ)を設立します。

koukayu.jpg明治後期、魚油を神戸居留地の外国商館、イリス商会以外に販売すると同商会が「目を丸くして怒る」ことから、「わが国では敬遠されている臭い魚油を外国では一体何に使用するのだろうか?」と常々不審に思っていた金子直吉は明治45(1912)年、東京帝国大学工学部応用化学科出身で油脂加工の研究を志していた新入社員の久保田四郎に命じて油脂加工の研究に従事させました。

その結果、欧州ではわが国より一足先に油脂硬化の工業化か始まっていたことが判明し、金子は久保田に硬化油生産の工業化を実現すべく、直ちに研究に従事するよう命じました。(右の写真は、硬化油です。画像提供:日油(株))

suzukisyoutennhyougokoujyou.jpg久保田の研究は1年余りで硬化油工業化の見通しがつき、鈴木商店選りすぐりの技術者6名が集結して「硬化油パイロットプラント」の建設を開始しましたが、その後の苦労は水素を製造する水電解装置が2度大爆発を起こすなど言語を絶するものがあり大正4(1915)年、ようやく兵庫工場(左の画像)が完成しました。

大正5(1916)年8月、兵庫工場において魚油による硬化油生産の工業化に成功しましたが、これがわが国の工業的硬化油生産の嚆矢(こうし)と言われています。

suzukisyoutennseiyusyooujikoujyou.PNG続いて大正6(1917)年に保土ヶ谷工場(神奈川県)、大正7(1918)年に王子工場(東京府)(右の写真)が完成し、これら3工場は硬化油、脂肪酸、グリセリン、石鹸を中心に多彩な製品を生産しました。

大正10(1921)年4月、鈴木商店は王子工場を独立させてスタンダード油脂(株)を設立し、翌年同社は兵庫工場と保土ヶ谷工場を譲り受けます。

大正12(1923)年12月、スタンダード油脂は日本グリセリン工業を吸収合併し、合同油脂グリセリンとなり、その後も幾多の合併等により合同油脂、(第一次)日本油脂、日産化学工業、(第二次)日本油脂という変遷を経て、現在の日油に至っています。

現在の日油はバイオから宇宙まで幅広い分野で新しい価値を創造し、多面的に展開する機能材化学メーカーとして躍進を続けています。

なお、調査書には、当時の製油事業の設備として魚油工場、魚油精製工場、鈴木油房、清水製油所、東海製油(名古屋特製豆粕会社を買収)が記され、「現在の設備は何れも倍額に拡張できる計画であり、目下準備中および設計中のものが全部完成すれば現在の二倍から三倍の生産額に達し、一たび有事の場合、全能率を発揮すれば優に今日の4、5倍に相当する生産額に達することが可能である」と記されています。

続いて、建設着手および計画中の設備として5工場(横浜製油工場、鳴尾製油工場、王子硬化油工場、保土ヶ谷硬化油工場、清水港第二工場)が記され、「同店は以前に魚油硬化について成功したことをもって今回大豆油の硬化を開始することとし、まず王子工場を本年末までに竣工させ、来春早々試験製造を開始し、その結果を待って保土ヶ谷および清水港第二工場に着手するはずである」と記されています。(調査書には、当時すでに完成し、操業していた同社初の硬化油工場である兵庫工場に関する記述がありません)

帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ④「樟脳及薄荷製造業」(調査書P25~33)をご紹介します。

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