神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第24回をご紹介します。

2016.11.15.

神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第3部 頂点に立つ (24)米国で若手が奮闘 小麦取引 世界ビッグ4に」が、11月13日(日)の神戸新聞に掲載されました。

今回の記事は、鈴木商店の新入社員、落合豊一がわずか21歳にして海外転勤の辞令を受け、赴任地としてアメリカのシアトルを希望する場面から始まります。続いて落合がバラ積みによる小麦の輸送方式を発案したこと、日本として初めて鈴木商店をシカゴ商品取引所の正会員として入会させるなど大いに活躍したこと、シアトル駐在員の冨永初造が帰国後深江文化村にてわが国最古のツー・バイ・フォー住宅を建設したこと、同じくシアトル駐在の中村勇吉がハッカ取引などで活躍したこと、アメリカで鈴木商店が築いたビジネスがその後も形を変えて脈々と続いていることなどが描かれています。

otiaitoyoiti.PNG落合豊一(後・日商第三代社長)(左の写真)は明治29(1896)年、徳島県板野郡北島村(現・北島町)に出生。生家は半農、半商の中流家庭で徳島商業時代には家業を手伝いながら、柔道部でも活躍しました。

神戸高商時代の卒業論文は「小麦の受給問題」をテーマにしましたが、このことが後年アメリカでの商売に大いに役立つことになります。

就職に際しては三井物産と鈴木商店から誘いがありましたが高商時代の恩師の勧めにしたがって大正6(1917)年、鈴木商店に入社します。



そして、入社1年目の夏には21歳の若さで世界一の小麦集散地であるワシントン州・シアトル出張所への赴任が決まります。

当時、鈴木商店には若者に自由に仕事を任せる社風がありました。落合の一年後輩に大屋晋三(後・帝人社長、運輸大臣・商工大臣)がいましたが、大屋は後に「これから勤める会社は私の反発的な気分を満たすに足る金子直吉という英雄的な番頭が経営する日の出の勢いの鈴木商店である」、「鈴木商店は私の期待に背かなかった。すべてが自由で積極的である。新入社員といえども十分に腕をふるう機会が与えられた」と鈴木商店の社風を語っています。

鈴木商店が売上高日本一になったタイミングということもあり、月給15円であった当時、落合には支度金600円という大金が支給されました。

落合は大正9(1920)年春、24歳のときにシアトル出張所長となるや、小麦・木材など重要物資の集散のさらに大きなオレゴン州最大の都市・ポートランドに出張所を移設します。商売に勝つためには他社と同じやり方ではダメと、神戸高商時代からの憧れであった小麦の取引ではそれまでの輸送方式の常識であった袋積方式からバラ積み方式を発案してこの方式に切り換えました。

IMG02437-20110703-1158.jpgまた、ポートランドから更なる飛躍をはかるため、世界一の規模と権威を誇るシカゴ商品取引所への入会を計画し、ユダヤ商社とのコネクションにより日本として初めて鈴木商店を正会員として入会させるという快挙を成し遂げます。

その後、鈴木商店以外のだれもシカゴ商品取引所には入会できませんでした。これにより、鈴木商店は小麦取引では三井、三菱の追随を許さず、世界のビッグフォーにまで登り詰めました。



上の写真は、シカゴのフロントヤード(前庭)という愛称で呼ばれている「グラント・パーク」内の世界最大にして最も美しいといわれる「バッキンガム噴水」とビル群の現在の様子です。

また当時誰も目をつけていなかったオレゴン州のクーズベイ港を「オレゴン松」の輸出拠点とし、大量の木材を日本に向けて輸出することに成功。「鈴木のクーズベイかクーズベイが鈴木か」とまでいわれ、鈴木商店の木材の取扱いは三井・三菱を凌いで日本一とさえいわれるようになりました。

その後もアメリカでの落合の活躍は続きましたが大正11(1922)年夏に帰国し、小麦部穀類課長に就任します。

nisikawamasaiti.PNGこの頃、落合の人となりを深く敬愛していた西川政一(後・日商第四代社長、日商岩井初代社長)(左の写真)は自ら電信課から穀類課への異動を希望し、落合から巨細もらさぬ薫陶を受けます。西川は昭和33(1958)年10月、日商第三代社長・落合豊一亡きあとを受けて、社長に就任します。

西川政一については、次の人物特集をご覧下さい。

人物特集>西川政一


名古屋日商ビル完成披露(昭和32年6月25日) (2).PNGなお、落合は昭和2(1927)年4月の鈴木商店破綻後わずか10か月後の昭和3(1928)年2月8日に誕生した日商(後・日商岩井、現・双日)の設立に、鈴木商店の生え抜き社員39名の内の一人として参画します。

昭和29(1954)年11月、落合は第二代社長・永井幸太郎のあとを受け、日商第三代社長に就任し、日商は総合商社としての地歩を確立しつつ戦後における本格的な発展期に入って行きます。



上の写真は名古屋日商ビル完成披露祝宴(昭和32年6月25日)の様子。左より中川喜代造(重役)、高畑誠一(会長)、1人おいて西川政一(重役)、落合豊一(社長)です。

落合は「創意工夫」をモットーとし、常に独創的なひらめきを随所に発揮しました。そして常に「天職(貿易にたずさわること)に生きる」ことに人生の感謝と喜びを感じていました。落合は「幹部は一般社員よりも三歩前を、社長は五歩前におれ」と自らに言い聞かせていたともいい、細心と豪胆の両面を兼ね備えた使命感に溢れた人物でした。

落合の同僚で、シアトル駐在員の冨永初造は帰国後大正14(1925)年、深江文化村(神戸市東灘区深江)にて、わが国最古の2×4(ツー・バイ・フォー)住宅を建設します。これは木材部材をアメリカより取り寄せて建築したものですが、阪神淡路大震災にも耐え抜いた強固な建築物で、現在神戸市景観形成重要建築物に指定されています。下の写真は深江文化村の案内板(左)と冨永初造邸です。

tominagahatuzoutei.PNG冨永初造邸につきましては次の地域特集をご覧下さい。

地域特集>神戸(周辺部>⑭深江文化村・富永初造邸

鈴木商店のアメリカでの活躍は目を見張るものがありました。大正10(1921)年に紐育(にゅーよーく)日本人會が発行した「紐育日本人發展史」には「大正5(1916)年5月に設立した鈴木商店紐育支店は日米人70人を使用し、三井、古川、三菱等と相並びて貿易会一方の重鎮たり」と鈴木の活躍が記されています。

鈴木商店の後継である日商は、昭和27(1952)年に戦後民間企業として初めてニューヨークに事務所を開設していますが、これも鈴木商店時代からのアメリカでのビジネスが基盤となっています。

bouinngusyastonopaatii.PNGシアトルにはアメリカ最大の航空機メーカー、ボーイング社の工場があり、戦後、日商は高畑誠一、西川政一、海部八郎の神戸高商トリオによりボーイング社の代理店として日本に大型旅客機を導入しました。

左の写真はボーイング社とのパーティーの様子です。(中央は高畑誠一会長です)


また、ポートランドにはナイキの本社があり、ナイキ社は日商岩井の支援により従業員30数名の小さな企業から今や世界の超一流ブランドに成長しています。

下記関連リンクの神戸新聞社・電子版「神戸新聞NEXT」から記事の一部をご覧下いただくことができます。

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