神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第22回「元祖『山、海へ行く』」をご紹介します。

2016.10.31.

miwatammiya.PNG神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第3部 頂点に立つ (22)元祖「山、海へ行く」 神戸臨海部 大規模な工場群」が、10月30日(日)の神戸新聞に掲載されました。

今回の記事は、阪神・淡路大震災からの復興を象徴する事業として整備された神戸の東部新都心「HAT(ハット)神戸」の一帯が、かつて金子直吉の発案により神戸製鋼所と川崎造船所が共同で完成させた埋立地であり、その工事が昭和の高度成長期に神戸市が進めた都市開発「山、海へ行く」の先駆けとなったとの記述から始まります。

続いて、大正9(1920)年10月の埋立工事の完工式の頃には造船業界からの受注が途絶え「札かけ休業」状態での式典となったこと、三輪徳太郎(冒頭の写真左)が三輪組を設立し、神戸製鋼所の田宮嘉右衛門(冒頭の写真右)の信頼を得て埋立工事に関わったこと、滝川()(ッチ)と金子率いる帝国燐寸が合併し東洋燐寸が誕生した経緯、金子が目を付けて建設した魚油工場から豊年製油(現・J-オイルミルズ)等へと発展していった経緯、鈴木商店の油脂部門にいた澁谷義雄が鈴木商店の破綻前に金子から独立を勧められ澁谷油脂を創業したことなどが描かれています。

sasikohannten.PNG神戸製鋼所とともにその歩みを進め、成長していった三輪組(三輪運輸工業の前身)は明治21(1888)年3月、三輪徳太郎が創業し、神戸の(わきの)(はま)に事務所を構えて貨物陸揚げ運搬業を開始しました。当時、脇浜の事務所があった辺りは白砂青松の海辺でした。

創業当時は港に出入する外国船や国内船の荷揚げ、積み込み、運搬、倉入れなどに取り組みましたが、とくに当時洋糖引取商として業容を拡大していた鈴木商店の仕事が多かったといいます。

徳太郎は、この鈴木商店との関係から神戸製鋼所の運搬業者としての基礎を築きました。創業(明治38年)当初の神戸製鋼所は主に船舶・車両などの鋳造部品の製造を手掛けていましたが、その製綱技術は極めて未熟で満足な製品が出来ず、赤字続きで経営不振に陥り、金子直吉と初代支配人・田宮嘉右衛門は工場閉鎖について協議することも再三という状況が続いていました。

三輪組はこのような状況にあった神戸製鋼所に荷揚げ、運搬、積み出し荷役、土木工事などの請負業者として出入りしていました。


神戸製鋼所の経営再建に取り組んだ支配人・田宮は、同社の古いしきたりによる不合理さに気づき、作業責任者の技師長に問題があると判断します。そこで技師長に辞職を勧告するのですが従業員の中にはこの技師長を支持する者もあり、工場内でさまざまな推測やデマが飛び交い、田宮の身の安全が懸念されるような不穏な空気に包まれていました。

徳太郎は下請の一運搬業者でしたが、かねてより田宮の先見力・経営能力・人柄を尊敬の目で見ていました。工場内には血の気の多い若者が多く、徳太郎は田宮の身辺を気遣っていました。あるとき田宮の身の危険を察知し、自分の着ている法被の中に小柄な田宮を子供を抱えるように入れて難を逃れたというエピソードが残っています。それほどに徳太郎は正義感が強く、義理人情に厚い男でした。一方で、若い時は遊びも相当なもので、誰にも負けない猛者でもあったといいます。

ある日、徳太郎は田宮家を訪問し「荷馬車を買うから、神戸製鋼所の専属として運送をやらせてほしい」と頼んだところ、田宮は「よろしい、やらせよう。しかし、今後一切、遊びをやめること。それを承知すればやらせよう」と条件を出しました。もちろん徳太郎は「遊びは一切やめる」ことを誓い、それ以降は精魂込めて仕事に打ち込みました。こうして三輪組は神戸製鋼所の専属請負業者として正式に指定されました。

上の写真は三輪組の創業当時に小頭(現在の現場監督)以上の社員が着ていた「刺子半纏(はんてん)」です。

tamiyajikihitunosyo.PNG徳太郎は田宮を畏敬し献身的に仕え、神戸製鋼所の専属になって以来、神戸製鋼所のためなら「水火も辞せず」と労使一体となって誠心誠意仕事に励んだといいます。この労使一体の精神を「総親和」という言葉で表し、社業発展のためのスローガンとしました。これが今日まで受け継がれ、三輪運輸工業の社是の一つになっています。

左の写真は現在の本社に掲げられている田宮嘉右衛門直筆による社是「総親和」と「重職責」の額です。



田宮嘉右衛門、三輪徳太郎につきましては、次の人物特集をご覧下さい。

人物特集>田宮嘉右衛門
人物特集>三輪徳太郎

神戸製鋼所は、鈴木商店が大里(だいり)製糖所を明治40(1907)年に大日本製糖に売却して得た資金により設備の拡充をはかるとともに、金子の人脈と金子直吉に抜擢された依岡(よりおか)省輔の外交手腕により、呉海軍工廠砲熕(ほうこう)部の随意契約の受注に成功。その後も舞鶴、横須賀、佐世保の各海軍工廠からも受注を獲得。これらが神戸製鋼所の発展の原動力となり、徐々に経営危機という苦境を脱していきます。

将来の展望に希望の光が見えた明治44(1911)年6月、神戸製鋼所は鈴木商店から分離独立し、鈴木商店全額出資の株式会社神戸製鋼所が設立され、再スタートを切ります。

神戸製鋼所は創業以来赤字経営を続けていましたが、下請運送業者としての三輪組も当然ながら苦しい経営状況が続いていました。

しかし、大正3(1914)年7月に第一次世界大戦が勃発すると空前の大戦景気が到来します。大正2(1913)年に1,200トンプレスという大型圧錬機を導入した神戸製鋼所は大戦による造船ブームを確実に捉え、同社には船舶のシャフト類、(いかり)などさばききれないほどの注文が殺到しました。

そこで同社は急増する需要に対応するため、新技術の導入・開発、工場の拡張など積極的な設備増強の実施に踏み切ります。当時、神戸製鋼所の本社地区である山手工場2万坪の敷地は限界に達していました。そこで工場敷地の拡大を海岸地区に求めることとなり、山手工場の南側・(わきの)(はま)の海岸を埋め立てて新工場を建設する計画を立て、金子直吉の発意により川崎造船所と神戸製鋼所が共同で埋め立ての申請を行い大正3(1914)年9月、認可を受けます。

川崎造船所は神戸市営ごみ焼却場から西側を、神戸製鋼所はその東側を埋め立てることになりました。

神戸製鋼所は、脇浜地先公有水面埋立工事を申請。埋立工事は第1次から第4次まで総面積約13.2ヘクタール(4万坪)の造成計画でした。

土地造成のための埋立工事は大正4(1915)年10月に開始し、大正9(1920)年10月に完了しました。この約4万坪の造成工事は三輪組が主体で実施しました。三輪組は5年間にわたる長期の埋立工事の無事完成を祈り、人柱(藁で作った人形)を埋めるなど精魂込めての大工事でした。

大正7(1918)年8月、神戸市東川崎町の鈴木商店本店が米騒動の(あお)りを受けて焼き討ちされますが、そのときの灰、瓦、石ころなどがこの埋立地に投げ入れられていたといいます。また、金子直吉の尽力により同年3月に実現した日米船鉄交換契約締結により輸入されたアメリカの鉄くずが、埋め立工事中の荷上場および埋立突堤一面に荷揚げされました。

syouwa10nenngoronohonsyakoujyou.PNG大正8(1919)年には脇浜の埋立工事がほぼ完了し、山手工場から真鍮合金工場が移転、広島工場からは溶解炉が移転します。翌大正9(1920)年には溶解工場、鋳鋼工場、2,000トンプレスを導入した鍛造工場が完成し。これらの工場は神戸製鋼所海岸工場と呼ばれました。

上の写真は昭和10(1935)年頃の神戸製鋼所本社工場です。

大正9(1920)年10月7日、埋立工事の完工式が挙行されましたが、この頃には大戦景気が終焉を迎えて造船業界からの受注はぱったりと途絶え、「札かけ休業」状態での式典となりました。さらに、「戦艦8隻、巡洋艦8隻」を建造しようという「八・八艦隊計画」が大正11(1922)年のワシントン軍縮会議の結果中止され、造船所で建造中であった戦艦も製造中止となりました。このことにより見込み受注を期待していた神戸製鋼所が受けたダメージは大きく、400名の大量解雇を余儀なくされました。

大正期に川崎造船所と神戸製鋼所が共同で完成させた脇浜の埋立地一帯は、現在、阪神・淡路大震災からの復興をめざすシンボルプロジェクトの一事業「HAT(ハット)神戸」として開発され、西側のハーバーランドと対をなす東側の新都心となっています。

三輪運輸工業につきましては次のページをご覧下さい。

ご協力企業>三輪運輸工業株式会社

今回の記事では冒頭に記述したとおり、滝川燐寸と金子率いる帝国燐寸が合併し東洋燐寸が誕生した経緯、金子が目を付け建設した魚油工場から豊年製油(現・J-オイルミルズ)等へと発展していった経緯、鈴木商店の油脂部門にいた澁谷義雄が鈴木商店の破綻前に金子から独立を勧められ澁谷油脂を創業したことも描かれています。

これらの詳細についてはそれぞれ下記のページをご覧下さい。

滝川燐寸、帝国燐寸、東洋燐寸
企業特集>火薬・マッチ・染料

鈴木商店の油脂事業
企業特集>油脂
鈴木商店の歴史>油脂業界への進出~豊年製油・合同油脂の設立

澁谷油脂
ご協力企業>澁谷油脂株式会社
人物特集>澁谷義雄

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