神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第21回をご紹介します。

2016.10.24.

神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第3部 頂点に立つ (21)尼崎に描いた夢 10万坪超の工業団地 目指す」が、10月23日(日)の神戸新聞に掲載されました。

今回の記事は、家族連れなどでにぎわう縦横に運河が走る尼崎臨海部の一角から始まります。高度経済成長の一翼を担った工都・尼崎。その基礎となる大規模な埋立計画を打ち出したのが鈴木商店であったこと、金子直吉がその埋立地に自らの製油や紡績の工場を造ろうとしていたこと、しかし地元の同意取り付けが難航する中鈴木商店が破綻したこと、その後京浜工業地帯の埋立を成し遂げた浅野総一郎が尼崎の築港計画を完成させたことなどが描かれています。

兵庫県尼崎では明治後期以降、既存工場の拡張に加えて旭硝子、横浜電線製造(後・古河電気工業)、住友伸銅所(現・UACJ銅管)など財閥系企業を中心に重化学部門の工場が相次いで進出しました。繊維産業では尼崎紡績(現・ユニチカ)、大阪合同紡績(現・東洋紡績)が進出。第一次世界大戦勃発による大戦景気中には、麒麟麦酒、日本スピンドル、関西ペイント、久保田鉄工所、中外護謨(ごむ)、乾鉄線(現・神鋼鋼線工業)などが操業を開始しました。

kubotatekkkousyoamagasaki.PNG上の写真は大正6(1917)年頃の久保田鉄工所尼崎工場です。(「クボタ100年」より)

このように尼崎の臨海部の工業化が進行する中、産業の発展に伴って増大する交通需要は陸上交通機関のみでは到底充足できませんでした。そもそも尼崎が工場適地として注目されたのも主として海運の便にあり、やがて尼崎港の大改修が企画されることになったのは当然のなりゆきでした。明治38(1905)年度には港内南半部の大浚渫(しゅんせつ)が実施され、翌明治39(1906)年には北半部も完成。明治後期から大正初期にかけて尼崎港の移出入額は急増していきました。

1_Kaneko Naokichi2.jpgこのころ起ったのが丸島築港計画でした。これは当時武庫川尻の東岸・丸島に10万坪の荒地を所有していた鈴木商店が、その所有地を埋め立てて工場用地を造成し、さらにそれを中心に一大港湾を築こうという計画で、大正元(1912)年11月、鈴木商店が資本金120万円の丸島築港(株)を設立しようとしたことから始まりました。

当初の計画は、丸島から東へのびた自然の()を利用して防波堤を築き、その東端を尼崎港西突堤との距離200間(360m)のところまで延長してその間を港口とし、港内は干潮面下八尺(2.4m)に浚渫し、その土砂をもって6万3500坪余(約21万㎡)を埋め立て、船溜(ふなだまり)・荷上場・倉庫などを造って臨海工場地とするという構想でした。


この構想が発表されると尼崎町内は賛否両論に分かれ、大論争となりました。兵庫県では隣接の尼波崎町、沿岸地主、丸島漁業組合などの同意を必要とするとして一旦却下します。そこで発起人総代・岡謹一(鈴木商店)と大庄村長らは尼崎町長はじめ町会議員や有力者と交渉を続けましたが、尼崎町側には丸島築港によって尼崎港の繁栄が奪われる、あるいは築港のような公共事業は私企業で行うべきではなく県営あるいは町営にすべきである、などの強硬な反対論もあって容易に決着しませんでした。

交渉の過程で、丸島築港側から新計画が提案されました。それは尼崎港の西突堤を撤去し、また尼崎港の東岸大高洲新田の地先水面約9万坪を埋め立て、両港を統合するというものでした。しかし尼崎町としてはこの事業を遂行する資力がなかったので、結局丸島築港が300万円に増資してこの工事を行い、報償として同社は東岸の埋立水面の払下げを受け、またそれに接続する土地の取得について尼崎町の斡旋を得るということで、丸島築港と尼崎町との合意が成立しました。

ところがこの案が尼崎町会で審議されると、それは丸島築港(=鈴木商店)の一方的利益をはかるものであるという反対論が強くなり、町長は職権を持って停会し、その間に反対論者を説得して、翌月の町会でようやく原案可決となりました。しかし、その後も有力者を含めた反対論者が運動を展開。さらに大庄村又兵衛新田にあった日本リーバ・ブラザーズ尼崎工場(*)のイギリス本社が入港税徴収に反対したため、国際問題に発展する恐れがあるとして県はこの問題に対して積極的な態度をとりませんでした。こうしてこの築港計画は暗礁に乗り上げた形となりました。

(*)わが国における硬化油(魚油・植物油などの飽和脂肪酸を多く含む液状油に水素を添加し固体状の脂肪にしたもので石鹸、マーガリンなどの原料になる)工業の発祥は、外国資本では日本リーバ・ブラザーズ尼崎工場、日本資本では横浜魚油といわれています。とくに日本リーバ・ブラザーズ尼崎工場は明治43(1910)年に設立され、日本特産の魚油とそれまで捨てられていた大豆油の絞り粕を原料とする硬化油、グリセリンから石鹸までの一貫製造装置を設置しました。このことがわが国の油脂業者にとって大きな刺激となり、鈴木商店の製油所をパイオニアとして多くの企業がその後のわが国の油脂工業の発展の緒についたと見ることができます。

やがて大正3(1914)年7月、第一次世界大戦が勃発して資材の入手難や工事費の高騰のため全工事を完成する見込みが立たなくなり、実現が困難となりました。大正6(1917)年には金子直吉と昵懇の後藤新平内務大臣が現地を視察し、官営築港案を語ったといわれ市営案も台頭しましたが、尼崎市は上水道の建設で大きな負債を抱えていたことから大事業の実現は到底不可能でした。

こうして築港計画は挫折し、丸島築港も正式に設立されることなく終わりました。鈴木商店も昭和2(1927)年に破綻を余儀なくされたため、この計画は完全に消滅しました。

尼崎港の築港計画は、昭和4(1929)年の尼崎築港(株)の設立によってはじめて実現されることになります。

asanosouitirou.PNG大正15(1926)年2月、浅野財閥の総帥・浅野総一郎(*)は鶴見-川崎間150万坪の埋立事業(後の京浜工業地帯)に続き、 尼崎に1万トン級の船舶が接岸できる近代的臨海工業地帯の造成を計画(約50万坪)し、兵庫県に出願しました。

(*)浅野総一郎は嘉永元(1848)年に越中薮田村(現・富山県氷見(ひみ)市)に出生。父親は町医者。15歳で大商人をめざすも失敗し「総一郎ではなく損一郎だ」とも言われました。借金を抱えながら25歳で上京し、廃品利用の事業を始めます。

後に渋沢栄一の支援、安田善次郎(安田銀行)の資金力をバックに官営深川工作分局のセメント工場(後の浅野セメント、現・太平洋セメント)の払い下げを受け、浅野造船所(後の日本鋼管、現・JFEエンジニアリング)を設立し成功を収めるなど浅野財閥の総帥となります。臨海部の利点に逸早く気づき、京浜臨海部他の大規模埋め立てにも積極的に取り組みました。

尼崎築港(株)は昭和4(1929)年3月、浅野総一郎によって設立(初代社長・浅野総一郎)されました。 浅野はすでにその前年、東京湾埋立(株)により鶴見-川崎の京浜臨海工業地帯の造成を完成していました。その経験から阪神間の工業地造成を計画し大正15(1926)年、兵庫県に出願しましたが、同じころ山下汽船社長の山下亀三郎も同様の計画をもっていたことから両社の出資により同社が設立されました。

埋立計画地は最終的に51万7,000坪余りと、前記の丸島築港の計画を上回る大規模なもとなります。昭和5(1930)年に着工した工事は浅野財閥の資金力により急速に進行し、昭和15(1940)年末には計画の86%が完成します。

工事の進行とともに昭和6(1931)年頃から埋立地の譲渡・賃貸を開始し、電力・鉄鋼・石油を主体とする大工場地帯が出現。1万トン級船舶が接岸できる港が完成し、阪神工業地帯の中核を形成するに至りました。尼崎が重化学工業都市(工都)として成立するのは、まさにこの時期といっていいでしょう。

尼崎築港が計画していた工業用地の造成は、完成半ばにして敗戦を迎えます。昭和23(1948)年6月、埋立事業そのものを行政が実施する方針が決定されたため、尼崎築港による尼崎海面埋立事業は埋立造成総面積約46万坪をもって終了しました。ちなみに、尼崎築港は現在も主に尼崎の土地の大手法人向け不動産賃貸業を営んでいます。

amagasakikoujyougunn.PNG上の写真中央は現在の尼崎南部の工場群の様子です。(画像協力 Mutsu Nakanishi Home Page)

amagasakiroku.PNG左の写真は現在の尼崎港のシンボル的存在である尼崎閘門(こうもん)(尼ロック)とその後方は工場群です。(画像協力 Mutsu Nakanishi Home Page)

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