神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第20回をご紹介します。

2016.10.17.

kanekokarahata2.PNG神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第3部 頂点に立つ (20)漁村から「造船の街」へ 大量建造 相生に活況の波」が、10月16日(日)の神戸新聞に掲載されました。

今回の記事は、播磨造船所の長崎県人会が故郷を偲んで相生でも行われるようになったペーロン競漕の場面から始まります。続いて相生(あおう)村長・唐端(からはた)清太郎(せいたろう)(((((冒頭の写真左)が相生を「西の神戸」にすることを目指して造船所を設立しましたが規模が小さく経営が苦しいため金子直吉(冒頭の写真右)に造船所の買収と拡張を依頼したこと、これに応じた金子が造船所を買収して播磨造船所を設立し、第一次世界大戦勃発に伴う造船ブームを背景に急成長を遂げること、金子から事務課長として送り込まれた北村徳太郎が社宅、病院、劇場、教会など住環境を約5年間で整備し、相生の街を様変わりさせたことなどが描かれています。

相生の造船所は、鈴木商店が進出するまで、6,000トン船渠(せんきょ)(ドック)一つの修繕主体の小規模造船所でした。相生村長・唐端清太郎は水産業の振興に尽力する傍ら、相生を「西の神戸」にすることを目指し、「造船所を創れば船が入り人が集まる」と考え、明治40(1907)年、阪神の財界人や地元有力者の支援を受け、村の未来を託して播磨船渠(せんきょ)株式会社(当時は「ハリマドック」と呼ばれていました)を設立します。

唐端が村長に招聘(しょうへい)された明治25(1892)年当時、相生村は人口約5,400人の漁村でした。唐端は、大正5(1916)年まで20年余りにわたって相生の行政を主導し、町制を施行するとともに造船業を擁する近代工業都市への道を開いたことで、彼が村長に就任していなかったなら相生市は存在していないだろうと誰もが思う相生の大恩人として知られています。

明治45(1912)年、神戸の汽船会社と結んで播磨船渠の事業を継承する形で新たに播磨造船株式会社が設立され造船事業を続けましたが、規模が小さいことから大正3(1914)に勃発した第一次世界大戦勃発に伴う造船ブームという好機も生かせず、経営は困難を極めていました。

そこで、唐端は急成長中の鈴木商店に「会社の買収と工場の拡張」を依頼します。折しも大戦勃発による船舶不足と船価高騰を予想し、造船業への進出を目論んでいた金子直吉は、川崎造船所社長の松方幸次郎らの意見を聞いた上で播磨造船の買収を決断します。

taisyou8nenngoronoharimazousennsyo.PNG大正5(1916)年4月25日、鈴木商店は播磨造船を買収して事業を継承。社名を「株式会社播磨造船所」と改称し、膨大な資本と人材を投入して海面を埋め立て、造船工場、機械工場、発電所等を建設するなど拡張をはかり、大型の新造船建造を主体とした4船台を有する日本有数の造船所を造り上げていきました。

なお、建設に当たり、主機械および主汽缶(ボイラー)は神戸製鋼所が担当しました。


上の写真は大正8(1919)年頃の播磨造船所です。

同年、鈴木商店は鳥羽造船所、浪華造船所を買収。翌大正6(1917)年には檜丸造船所(木造船)を買収。大正5(1916)年には帝国汽船、大正8(1919)年には国際汽船を設立して、船舶業にも進出していきました。

syatakutosyoitenngai.JPG播磨造船株式会社買収直前の大正5(1916)年3月に252名であった播磨造船所の従業員数は、大正8(1919)年12月には6,372名にまで急増します。従業員のうち半数以上は、長崎・呉など他の町からの移住者であったため、播磨造船所は従業員を定着させるため、相生の各地に大規模な社宅街を建設し、商店街(現・ほんまち商店街)、病院(現・IHI播磨病院)、幼稚園(現・相生幼稚園)、播磨劇場、教会などの施設の建設、道路の整備など町の近代化に注力しました。

上の写真は、現在も使用されている旧・社宅の建物(左)と現在の「ほんまち商店街」です。

kitamuratokutarou.PNGこの街造りを主導したのが、鈴木商店から送り込まれた若手社員の北村徳太郎(*)(左の写真)、福渡一雄らでした。

(*)鈴木商店から播磨造船所、神戸製鋼所へ転出し、後・佐世保商業銀行(現・親和銀行)頭取、佐世保商業会議所会頭、運輸大臣・大蔵大臣、日ソ東欧貿易協会会長、明治学院大学理事長他

その後も播磨造船所は、実質的に鈴木商店の一部門としてその潤沢な資金供給によって、着実に有力造船所としての地歩を確かなものにしていきました。


ペーロン競漕について
pe-ron.PNG日本におけるペーロン競漕は、明暦元(1655)年5月、長崎に来航していた中国船が船神に風の鎮静を祈って行ったことに始まります。

大正時代、播磨造船所には長崎から多くの従業員が移ってきました。大正11(1922)年、播磨造船所の長崎県人会が故郷を偲んでペーロン競漕を提案したことから相生でも行われるようになりました。



戦前のペーロン競漕は、造船所の海上運動会として5月27日の海軍記念日に行われていましたが、現在は、「相生ペーロン祭り」の海上行事として5月の最終日曜日に行われています。市内外から出場する多くのチームの間で激闘が繰り広げられ、未来の漕ぎ手となる子どもたちを育成する取り組みもなされています。

大正7(1918)年11月、第一次世界大戦が終結すると、日本経済はたちまちにして反動不況に突入します。これに対応するため、鈴木商店の関係会社や直営部門は事業再編がはかられることになりました。鈴木商店は、大正7年に浪華造船所を播磨造船所と合併させ、続いて同年、播磨造船所、鳥羽造船所を帝国汽船と合併させます。両造船所は、それぞれ帝国汽船播磨造船工場、帝国汽船鳥羽造船工場に改称しました。

その後、大戦後の不況は予想以上に深刻となり、大正10(1921)年、鈴木商店は帝国汽船の造船部門を神戸製鋼所に合併させます。結局、帝国汽船播磨造船所工場と帝国汽船鳥羽造船所工場は神戸製鋼所の造船部に移管される形となり、それぞれ神戸製鋼所の分工場、神戸製鋼所造船部播磨造船工場と同鳥羽造船工場となりました。

昭和2(1927)年、鈴木商店は金融恐慌の中破綻を余儀なくされます。同年、神戸製鋼所は鳥羽造船所工場の造船・起重機部門を播磨造船所工場に統合し、鳥羽造船所工場の電機部門である鳥羽電機製作所のみを神戸製鋼所に残しました。これが後の神鋼電機(現・シンフォニアテクノロジー)へと発展していきます。

昭和4(1929)年、神戸製鋼所は造船部の分離独立を決定し、(第二次)「株式会社播磨造船所」が誕生します。その背景には、当時合理化を進めていた神戸製鋼所にとって、不況に喘いでいた造船部門を切り離さざるを得ない状況があったのです。                               

harimazousennjyo50syuunen.PNGその後、播磨造船所は大戦後の不況を乗り越え、タンカー建造において日本を先導し、スーパー・タンカーでも先陣を切りました。小説「海賊と呼ばれた男」(百田尚樹著)で有名になった出光興産の「日章丸2世」も播磨造船所で建造されたタンカーです。

昭和32(1957)年8月、相生総合事務所が竣工。翌昭和33(1958)年11月には播磨造船所創業50周年記念式典が総合事務所前で盛大に挙行されました。(左の写真)


この頃、造船業界はリーディング・インダストリーとして躍進を続けており、播磨造船所は設備投資を継続する傍ら、播磨病院・相生球場・陸上競技場・体育館など厚生施設の建設を進めていきました。

昭和35(1960)年、(第二次)播磨造船所は石川島重工業と合併し、石川島播磨重工業株式会社(IHI)として発足。当時は、造船、修理部門から成る相生第1工場、ディーゼルエンジン、ボイラーの原動機部門から成る相生第2工場の2事業部門制を採用していましたが、相生第1工場は、昭和37(1962)年から3年間にわたり世界第一位の進水量を記録しています。

昭和60(1985)年9月のプラザ合意に伴う円高に直撃される形で昭和62(1987)年、IHI相生は新造船からの撤退を余儀なくされます。

amutek.PNG新造船事業から撤退したIHI相生は、平成2(1990)年に船舶を建造していた相生第1工場の開発工作部門と修理部門を統合してアイ・エイチ・アイ・アムテックを分社・設立します。同社は、主に船舶の船首ブロックや居住区の製造、海洋環境船の建造、フェリーの改造など高付加価値製品と小型特殊船を建造し、平成25(2013)年にはJMUアムテック(左の写真)に社名を変更します。

なお、石川島播磨重工業本体は平成19(2007)年にIHIへと社名変更し、原子力発電用機器、航空機ジェットエンジン、宇宙関連機器、省力産業など幅広い分野で事業展開し、今日に至っています。


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