辰巳会・会報「たつみ」シリーズ㊴「たつみ第39号」をご紹介します。

2022.7.5.

たつみ第39号表紙.png 「たつみ第39号」は、昭和58(1983)年8月1日に発行されました。この年1月23日、永井幸太郎が95歳の生涯を終えました。明治42(1909)年、神戸高商卒業後、鈴木商店に入社し、同期の高畑誠一と共に"高商派"の中心となり鈴木の経営近代化に貢献、鈴木破綻後、再建を期して高畑等と共に日商を設立し第2代社長を務めました。永井の死を悼み多くの弔辞が寄せられた他、永井にまつわる関連記事が紹介されています。

◇「永井幸太郎物語」大塚融

 鈴木商店破綻後、高畑誠一等と共に再起をかけて設立した日商(株)第二代社長を務めた永井幸太郎が昭和58(1983)年1月23日亡くなり、日商岩井では永井を偲んで社内報に「永井幸太郎物語」を連載してきた。

 同特集の執筆は、永井とも個人的な交遊のあった大塚融氏(NHK大阪報道局報道記者、当時)に依頼し、全5回に亘って連載された特集は、同年10月冊子として発刊されることになった。

 本号には、第2回"「日商」創立時代"が掲載されている。"Small,slow but steady" (小さくても堅実に)をスローガンに永井・高畑の名コンビ により新生「日商」が船出した。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「大里製粉所の赤煉瓦等の想い出」菅原光保

 明治44(1911)年、鈴木商店により設立された「大里製粉所」は、大正9(1920)年日本製粉と合併し、日本製粉・門司工場として再スタートを切った。昭和2(1927)年、鈴木破綻後、三井系企業として新たな出発を始めた日本製粉・門司工場に二度の勤務を経験した筆者が、大里製粉所時代から残る赤煉瓦の建物や、旧支配人室、金子直吉の執務室など所々に鈴木時代の名残があったと思い出を綴っている。(詳細は、関連リンクをご覧ください。) 

◇「賀陽宮邦寿殿下を迎えて / 故西川玉之助翁の遺業を讃える」

 明治42(1909)年、満州ハルピン駅頭にて起こった伊藤博文暗殺事件の犯人・安重根は、死刑判決により翌年処刑された。その間、安の通訳を務めた西川玉之助に対し、安は謝意を示す墨蹟を遺した、また後日、この書状を柳田義一等を通じて韓国政府に贈呈したところ、神戸韓国領事館を通じ韓国文部大臣より感謝状が贈られた。(たつみ第8号

 西川翁の遺志を継ぎ、西川翁の冥福とともに安重根の慰霊祭を日韓合同で実現したいと柳田義一を始めゆかりの関係者が、韓国とゆかりの深い梨本宮家に繋がる賀陽宮邦寿(かやのみや くになが)殿下を迎え協議した。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)

◇「パパ随想」金子貞子

 お家さん・鈴木よねの三男で鈴木商店および鈴木系企業の経営に携わった鈴木岩蔵の次女の筆者が、若き日米国に留学したハイカラさんだった父親について回想を投稿している。

 米国MIT(マサチューセッツ工科大学)を卒業したことを誇りにしていた岩蔵氏は、最先端の化学工学を学んで夢と希望と不安を胸に留学より帰国し、研究所の設立を望んだが、その夢は叶わず生涯その悔しさを抱いていたと筆者は綴っている。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「"お家はん"の想い出を ~柳田義一氏に聞く」対談:柳田義一+網野敏

 地元神戸の郷土史研究家が柳田義一にお家さん・鈴木よねの人となり、鈴木商店の切り盛り、大家族主義、女子の商業教育等々についてお家さんに間近に接し、見聞きした事柄を対談形式で聞き出している。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

 

 

関連資料

関連リンク

TOP