辰巳会・会報「たつみ」シリーズ㉚「たつみ第30号」をご紹介します。
2021.12.12.
「たつみ第30号」は、たつみ発刊30号の記念号として昭和54(1979)年1月1日付にて発行されました。同号の表紙を飾るのは、奈良法隆寺金堂阿弥陀如来天蓋装飾の一部で、金堂の三つの天蓋は令和2(2020)年に国宝に指定されました。
また表紙裏には、土佐藩15代藩主・山内容堂による新年短古(短い古詩)を紹介しています。この書は、鈴木商店支配人・西川文蔵のコレクション「脩竹 清風帖」に収められています。
なお、本号では、昨年死去した辰巳会会長・高畑誠一氏の後継会長として太陽鉱工(株)社長・鈴木治雄氏が就任したことを報じています。
◇「栄光をしのぶ 心に生きる鈴木商店」
昭和53(1978)年10月24日付日経新聞特集記事「つどう関西の経済人」には、"栄光をしのぶ 心に生きる鈴木商店"と題し、かつて鈴木商店で活躍したOBによる親睦組織「辰巳会」会員の次世代に伝えたいとする鈴木商店に対する熱い思いを紹介しています。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
◇「国益志向の経営」桂芳男(神戸大学助教授)
「総合商社の源流 鈴木商店」の著者で、神戸大学助教授の桂芳男氏が日経新聞コラムに「国益志向の経営」と題する見解を述べています。
鈴木商店の金子直吉の実業家としての神髄(真髄)は、国益志向の経営理念だと云う。この国益志向的経営理念に基づいた多角化志向の経営戦略は、自明のこととして展開された。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
ロンドンを舞台に鈴木商店の大飛躍を牽引し、鈴木破綻後は盟友・永井幸太郎とのコンビで日商を創設し生涯商社マンとして大正・昭和をスマートに貫いた高畑誠一。鈴木のドラマチックな証言者がまた一人逝ったと地元・神戸新聞が報じた。(昭和53年9月2日)(詳細は、関連リンクをご覧ください。)
昭和53(1978)年9月19日、91歳の生涯を閉じた高畑誠一氏の葬儀は、翌20日高畑邸にて密葬の法要が営まれ、10月14日には日商岩井による社葬が大阪南御堂にて執り行われた。故人を悼む弔辞は、何千通も寄せられた。本号では、葬儀委員長で日商岩井(株)代表取締役社長・植田三男氏、太陽鉱工(株)社長・鈴木治雄氏、辰巳会幹事代表・大幡久一氏の弔辞が紹介されている。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)
◇「企業戦略のルーツをさぐる(下)」作道洋太郎
「たつみ第29号」に引き続いて大阪大学教授で日本経済史の専門家・作道洋太郎氏の「企業戦略のルーツをさぐる」後編を紹介している。 江戸中期の思想家・石田梅岩の唱える経営哲学「石門心学」が商人の社会的役割を強調し、新しい価値体系の教化活動を広めたとする。
平民のための平易で実践的な生活哲学は、商家の家訓への影響にも及び、「西鶴商法」との共通性を認めながら「関西商法」の伝統から企業者精神を学ぶことができると解説する。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
この程、太陽鉱工に豪州から珍客が見えた。豪州・ブリスベーンのグリフィス大学で日本史を教えている助教授・ロバート・D・ウォルトン氏で、日本の総合商社の歴史を研究する中、鈴木商店に興味を抱き太陽鉱工を訪れたと云う。
鈴木商店を大商社にのし上げた金子直吉の存在は、ドラマチックでそのキャラクターを掘り下げることは、その時代の日本の産業のあり様を浮き上がらせることになると云う。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)
大正12(1923)年9月1日に勃発した関東大震災を体験した筆者は、当日鈴木商店東京支店の食堂で正に昼食を済ませた時だったと述懐する。
地鳴りを伴う激動に社員は一斉に事務所を飛び出すと、近くの堀川には津波による高潮がひたひたと岸壁を洗うようになったため、急ぎ帰宅することになり、筆者を始め独身者は走りに走り省線大井町駅にたどり着き、そこから荻窪の寮に帰ることができた。
震災から三日後の9月4日、筆者と上司の渡辺主任は、支店長の命により東京の状況を報告するため本社に急行した。筆者不在の折、鈴木商店が復興のために供出を申し出ていた輸入木材について内務省から直ちに引き渡すよう指令があり、急遽神戸から引き返した筆者が内務省係官に同行して月島の貯木場に出向き寸法検査(寸検)を実施した。検量を終えてふと筏に目をやると異様な光景を目にした。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)