辰巳会・会報「たつみ」シリーズ③「第3号」をご紹介します。

2020.3.12.

20191029_210702たつみ第3号(表紙).jpg たつみ第3号は、昭和40(1965)年5月1日に発行されています。

 本号でも金子・柳田両翁や二代目鈴木岩治郎を偲ぶ会員の投稿が相次いで紹介されています。

◇「星空は輝く」  山地孝二

 世界中を駆け回る"移動出張員"として情報収集活動により鈴木商店の飛躍を陰で支えた筆者が金子直吉・柳田富士松の両翁の人柄を偲んで思い出を綴っています。

 金子からの教え「何事でも経験しておいて損にならない」との教訓が後々、身に染みて実感したと述懐しています。また、柳田については、慈父の如き暖かさを以って接して貰ったこと、金子の活躍は女房役としての柳田の陣営を微動だにせず固く守っていたことに依ると偲んでいます。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「生涯要(かなめ)の人」  柳田義一

 柳田富士松の長男で、長く鈴木家との関わりも深く、「辰巳会」や会報「たつみ」の編集にも携わっていた筆者が、その幼少より身近に接してきた二代目鈴木岩治郎の人柄について、大鈴木商店を金子直吉が一人で切り回りしているかに見えるなか、いつも鷹揚に構えて大局を見抜いていたと感想を残しています。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

 また、本号では、米騒動、鈴木商店焼打ちに関する投稿が2件あり、当時の鈴木商店社員がこの一大事をどのように捉えたか興味深い記事が載っています。

◇「"文学界"城山三郎氏の「ねずみ」をすすむ」  久 琢磨

 神戸高商(神戸大学の前身)出ながら土佐出身で"土佐派"の急先鋒の久琢磨氏は、昭和2(1927)年の大騒動(鈴木商店の経営行きづまり)の折の社員大会で、金子直吉が経営から追われたことに憤慨し、「鈴木と金子は一体である。金子さんを追い出すとは不届千万だ」と不満をぶちまけたことが災いし、金子に殉ずる思いで鈴木を退職された。

 後年、東京築地に滞在中の金子直吉を訪ねた際、金子から鈴木の整理に至った真相をつぶさに聞き、米騒動についても真実を聞かされた久氏は、何としても鈴木の汚名を雪ぎたいと願っていたところ、経済小説作家の城山三郎を紹介される機会があったと。

 早速、久氏は城山を太陽鉱工で鈴木治雄氏(常務取締役、当時)や橋本隆正氏(専務取締役、当時)に紹介、さらに鈴木本家や一の谷の旧金子邸にも案内した。城山はその後、関係官庁、新聞社、鈴木商店ゆかりの人々にインタビューを行い、雑誌「文学界」に「鼠」と題して連載が始まったとのこと。(昭和39年10月~昭和41年3月)久氏の止むに止まれぬ思いが城山三郎を動かし、城山の代表作「鼠」の誕生に繋がった秘話を紹介しています。(詳細は、下記の関連資料をご覧ください。)

◇「私の見てきた米騒動」   芦谷 増吉

 第一次世界大戦後、我が国では米の豊作が続いたことによる米価下落の救済策として内地米の海外輸出を行っていたが、米騒動が起こった大正7年当時、前年の米作不況から政府は、高米価の調節をするため一転して外国米を輸入するという臨時外米監理令を実施。鈴木商店、三井物産、岩井商店、湯浅貿易の4商社を指定してラングーン、サイゴン等よりの輸入措置を執らせた。

 当時鈴木商店米穀部に在籍していた芦谷増吉氏は、主任の永井幸太郎の下で外国米の輸入業務に従事していたが、米価の高騰は止まらず、政府は鈴木商店に朝鮮米20万石を秘密裏に緊急輸入して、これを事態急迫する東京へ廻送する措置を命じた。

 この時、鈴木商店は自ら輸入米の買い取りをせず、小西なる朝鮮米専業者に委託して東京へ廻送したことが誤解を生み、某新聞社の誤報から神戸にも米騒動が伝播して鈴木商店焼打ちに波及してしまった。

 この事件に遭遇した芦谷氏は、折しもシベリア派兵の報道に接し、"世の中には盲人も千人いる。"という例えから"ある程度宣伝の必要もある所以だ"と実感したと述懐しています。(詳細は、下記の関連資料をご覧ください。)

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