天下三分の宣誓書(全文)

鈴木商店の関係者の間で後年 「天下三分の宣誓書」と呼ばれた手紙は、金子直吉が鈴木商店全員に発した大号令であった。

「三井、三菱と天下を三分しよう」という金子の溢れるばかりの気迫と自信に満ちた手紙を受け取った高畑誠一は、後に日経新聞の「私の履歴書」の中で「当時の鈴木の社員は、この金子さんの大号令に、まるで魔術でもかかったように勇気づけられて突撃した。」と述懐している。

この「天下三分の宣誓書」には、日付が11月1日のみ記されていることから、近年まで大正6(1917)年とされてきた。この手紙を受け取った高畑自身も「私の履歴書(昭和47年)」で大正6年と記したほか、白石友治が「金子直吉伝(昭和25年)」のなかで、また桂芳男も「総合商社の源流 鈴木商店(昭和52年)」で、さらに柳田義一も「金子直吉遺芳集(昭和47年)」でいずれも大正6年としている。これは、金子直吉伝の日付を踏襲したものと推察される。

昭和35(1960)年に兵庫新聞社より発行された「松方・金子物語(藤本光城著)」の後書きを書いた一人浅田長平(元神戸製鋼所社長)が「天下三分の計」と題して回想している。それによれば大正7年12月に浅田がスイスへの出張の途中、ロンドンに立ち寄り鈴木商店の高畑を訪ねている。その折り、高畑より金子の手紙を見せられ、これは2年前の大正5年、小川実三郎がロンドンに赴任した際、金子より直々に手渡され持参したものと聞いたと記している。このことから「天下三分の宣誓書」は、大正5月11月1日と考えられてきたが、その. 後の研究」により大正4年11月1日が事実であると考えられる。(2016年2月6日付 編集委員会ブログご参照。)
以下に全文を紹介したい。(ただし「金子直吉遺芳集」を引用しているため、日付は大正6年11月1日となっている。)

『高畑君に対し、先日御懇書を以て戦争に依る英米財界の変遷を報導せられ是が確に吾人の法螺(ほら)袋(ぶくろ)の一部と成りしを感謝す。尚如斯(かくのごとき)一般的の報告と共に又専門的、仮令(たとえ)ば豆が戦争の為どうなるか戦後樟脳の需要がどうなるとか斯うなるとか言ふ様な報告をも賜はらん事を望む。

即ち一般的報告も頗る必要には相違なきも当店の取扱に係るもの乃至日本の商売に関係ある砂糖・米・豆・石炭・船・樟脳・薄荷等の部分的商品に対する戦前戦後需要の変遷等の報告がより以上必要なりと言ふに在り、蓋(けだ)し戦争が終局に進むに隨(したが)ひ弥々(いよいよ)益々必要を感ずるものと御承知を乞ふ。小川君の増員を行ふも又ロンドン出張所に如斯余裕を与えんと欲するに外ならず、今小生が聞かんとする所を左に示録せば今日船舶の黄金時代が戦後まで継続するものとせば凡そ何時迄継続すべき哉(や)、戦後運賃界は如何に成行(なりゆく)べき乎(か)。

砂糖の商況は戦後如何に成行べき乎、戦後に於ける需要供給の状態如何。

其の他米・豆・豆油・魚油・樟脳・薄荷・銅・錫・亜鉛・鉛等に就き現在の状況及び戦後に於ける需用供給変遷の見込如何等。

又英米に於ける鉄の供給は戦局の如何に拘らず継続し得らるゝや、戦後に於ける需要供給の見込如何。

労銀が戦争の前と今日と何程の差を生じたるや、又戦後労銀の見込如何。
造船費用は戦前と今日と又何程の差ありや戦後は如何に成行べき乎。

英国に於ける戦前と今日とを比較せる物価表を送られたし、但し指数に依るものにては駄目也。即各種商品の高低表を見て今日迄未だ心付かざりし金儲けの材料を得んとするにあればなり。英国如何に冨ありと雖も今日の如き大戦を永くやる時は結極不換紙幣を発行するに至らん是吾人の最も恐るる所此点に深く注意せられんこをと切望す。

戦争の為め英国の商業は地方的に成りつつ在り仏米に人を派遣するの要なき乎。

今後は日本米と豆の輸出を盛大にやらんと欲す。昨年の例に依るときは米は満足すべき商売を為したるも豆は甚だ不十分なりし、大いに協力せられん事を望む。豆及び豆油の商売は当地の小寺頗る優勢なり。豆油の如き鈴木商店の輸出は多数の場合にて一回一、二万箱に過ぎざるも小寺の場合は豆油の満船積商売を為す事珍らしからざるを以て甚だ羨望に堪えず、或は云ふ、コンサイメントを為す故如斯多額の積出をやるもの也と、果して然る時、何等浦山敷(うらやましき)事なしと雖(いえども)も、若し然らざる時は商人の大恥辱なるを以て一片の御調査を乞ふ。

豆も又現在の取引先にては不充分にして当地大連にて意の如く活動出来ざるを覚ゆ。是も又特別の注意を払われんことを依嘱す。

当方にて銅亜鉛等製煉事業を開始したるに甚だ好結果也。即ち銅は支那の古銭其の他古金類を分解亜鉛と銅を得るに在り、亜鉛と鉛はロシヤ、濠州により鉱石を取寄せ是を製煉しつつ在り、此の事業に対しても有益なる報告と知識を与えられんことを望む。

船舶、先の帝国丸は他に売却(明年七月六十五万円にて)せり、続いて報国丸の又売らんとす。其の代りに一万噸の船二ツ、五千噸一ツと三千噸一ツ、今新造中也、一番早き分にて来年八月に出来る。

小川君持参の砲弾はロシヤの注文にて数ヶ月後より製造する予定也。貴地にても仏国其の他より注文を得べし、代価は一個十八円なり、高ければカウターヲファーを望む。其の他此程度の軍需品日本にて出来るものは注文取る事甚だ面白かるべし是仏国に人を派する必要あらんかと考ふ所以也。

今当店の為し居る計画は凡て満点の成績にて進みつつ在り、御互に商人として此の大乱の真中に生れ、而も世界的商業に関係せる仕事に従事し得るは無上の光栄とせざるを得ず即ち此戦乱の変遷を利用し大儲けを為し三井三菱を圧倒する乎、然らざるも彼等と並んで天下を三分する乎、是鈴木商店全員の理想とする所也。小生共是が為め生命を五年や十年早くするも縮小するも更に厭う所にあらず。要は、成功如何に在りと考え日々奮戦罷(まかり)在(あ)り恐らくは独乙皇帝カイゼルと雖も小生程働き居らざるべしと自任し居る所也

ロンドンの諸君是に協力を切望す。小生が須磨自宅に於て出勤前此書を認むるは、日本海々戦に於ける東郷大将が彼の「皇国の興廃此の一挙に在り」と信号したると同一の心持也。

大正六年十一月一日
須磨自宅にて 金子直吉

高畑君
小林君
小川君 』

この檄文の手紙は、永く高畑が家宝として手元においていたが、その後太陽鉱工が保管し、現在は神戸市立博物館に鈴木商店ゆかりの品々と共に寄託され保存されている。

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