金子直吉に関する関係者・各界人の言葉シリーズ④「各界人の言葉」

私欲はないが旺盛無比な事業欲を持った、財界におけるナポレオンに比すべき英雄

福沢桃介(福沢諭吉の女婿、名古屋電灯社長、大同電力社長、「電気王」「電力王」の異名を持つ)
四国の南端、薩摩嵐のそよ吹く土佐の国は、我が財界に二大偉人を送った。一は岩崎弥太郎、一は金子直吉だ。弥太郎は人も知る通り現今(げんこん)三井と並び称せられる世界的富豪三菱の鼻祖(びそ)、時代が(うつ)っているとはいうものの、彼が死んだ時の三菱の財産はせいぜい約二千万円、その事業は三菱汽船会社(のちに郵船会社となる)、高島炭鉱くらいのものであった。

これに引換え鈴木商店すなわち金子の事業は、とうてい弥太郎逝去当時の三菱の比ではなかった。日本において他の追随を許さざるのみならず、世界の檜舞台に押出しても当然ファスト・クラスに()するものであった。すなわち鈴木の支配下における事業と投資額は、ザット次のとおり。・・・・

投資額三億二千百万円、会社五十余、これだけの尨大(ぼうだい)の資本と会社を、五千万円の合名会社鈴木商店と五千万円の株式会社鈴木商店で動かしていたのだ。そして、製造工業やその他の事業のほかに、世界を股にかけて我が輸出入貿易の大半を取扱い、一年の商売は十億を算し、大正八、九年の全盛時代には十六億に上ったという。

三井物産の昭和三年における商売は十二億六千万円で、会社創立以来の最高記録であったが、大戦前後は十二億円くらいだったから、当時はさすがの三井も鈴木には及ばなかったとみえる。当時、スエズ運河を通過した船舶積荷の分量からいっても、鈴木関係は約1割を占めていたそうだ。そして、大戦中に鈴木の手で正貨を我が国に吸収した額は、無慮(むりょ)十五億に達した。もって、鈴木が我が国際貸借に偉大なる貢献をしたことがわかる。

のみならず鈴木は、人造絹糸、製油、樟脳再製、窒素工業のごとき我が国に必要な基礎工業にも先鞭をつけた。その英雄的行為は、驚嘆するにあまりあるではないか。

ナポレオンは、モスクワの戦に一敗地にまみれて、ついにセントヘレナで悶死したが、やはり彼は歴史上の偉大なる英雄たるを失わぬ。それと同じく、昭和二年四月若槻内閣当時、例の金融動揺に()って鈴木商店は(もろ)くも没落したが、首脳者金子は我が財界におけるナポレオンに比すべき英雄だ。

金子は、政治家に知人が多い。ことに台湾で砂糖、樟脳等の事業に関係した故か、後藤新平と親交があった。また同郷の(よしみ)とでもいおうか、浜口雄幸とは最も親密の間柄だ。後藤が逓信大臣になった時浜口は後藤の下に次官となったが、両者を接近せしめたのは、まったく金子の力である。また浜口が同志会 ― 今の民政党 ― の党人になったのも金子の勧説によるところだ。

かように金子は、後藤、浜口と親戚以上の付き合いをしていたが、一度だって自腹を切って芸者を世話したことがない。― もっとも、後藤はそうでもないが、浜口に芸者をといったらおそらく絶交するだろう。― いわんや、後藤が政治運動を始めるといっても、浜口が(かん)(のう)をはたいて国事に奔走していても、さぞかし御不自由でしょう、と気を利かせて一封を献上するような粋なことはしない。ただ親交があったというだけのことだ。

金子は博聞(はくぶん)強記(きょうき)、あたかも大谷(kou)(ずい)髣髴(ほうふつ)たるものがある。大谷は、哲学仏学はもちろん、機械天文に至るまで造詣が深い。しかし悲しいかな、これを消化し応用する才能が足らぬように思われる。そこへ行くと金子は哲学仏学こそ学ばぬけれども、事業商売にかけては何一つ知らぬことがない。のみならず、これを消化応用する術も心得ている。また、他人の説を聞いてただちにこれを自説と融和させ、まったくの自家の意見として吐き出すことが上手だ。(抜粋)

「財界人物我観」(昭和5年3月発行、著者:福沢桃介、発行:ダイヤモンド誌)より


山下亀三郎(山下汽船創業者)
松方幸次郎が公爵松方正義氏の令息であることは誰もが知る処であって、明治三十年頃であったか、同氏がアメリカの学校を卒業して帰って来ると、直ちにその時の経営者である川崎正蔵氏の()いに応じて一足飛びに川崎造船所の社長となった人である。

爾来(じらい)大正の終りに至るまで社長を続けて、その蹉跌(さてつ)と共に身を退いたのであるが、今日の川崎重工業会社が関西に巍然(ぎぜん)として存在し、造船は申すに及ばず、車輌に、薄板に、その他色々の重工業にその各部門が三菱重工業と対抗して経営されていたという事は、松方氏が残した偉業である。

やはり此人も第二世的存在であるということと、薩摩人としての性格は争えない事実であって、好いと思った人は何処(どこ)までもよく、やろうと思ったことは如何なる人から注意を受けても自分の意思の通りにやる、周囲の説を容れないというのがその仕事のやり方であった。

だが、然し、その間において、友人関係であった金子直吉氏の提議は()きいれた。川崎造船所が大戦当時二十万トンものストック船を造った如きは、全く金子氏の提議によるものである。その店で小僧から身を起こし、遂に自分の名前の方が店の名前を圧するという事実は、神戸の鈴木商店における金子直吉氏だ。

この金子氏は小僧上がりであって、何等の学究的研究をした人でないにも拘らず、鉄であれ、綿であれ、樟脳であれ、石油であれ凡百(ぼんぴゃく)の商品に何でも通じていないことはない。そうして身は一度も海外の地を踏んだことなく、上海、香港も知らないのだが、世界の地理を語る時には殆んど世界中にその足跡を残さないところはないほどの信念をもって甚だ明確で、実に不思議に思った。世界の地図について船の航程(こうてい)を談ずる時に私は縷々(るる)その説を聞いたことがあったが、人間の頭脳組織も私とくらべてこうも違うものであるかと思った。

敗軍の将は兵を語らずという言葉から、今日は政府も民間も一度事業に蹉跌(さてつ)をした者の話には耳も傾けないという風があるが、之は甚だ間違っていると思う。今日の久原、松方、金子の如きは大なる経験と達見の持主であって、その創意というものは、とても他の人に求めて見当たらないものがあるだろうと思う。(抜粋)(昭和十六年三月十二日 山下亀三郎)

    「沈みつ浮きつ」(著者:山下亀三郎、発行:四季社)より


山下亀三郎
私は旧友として又金子氏の熱意に対して、多少の力を貸すに(やぶさ)かなものではないが、金子氏を少しく試みようと思って「お互いにもう四年経てば八十になるではないか、今からそういう大計画はどうかね」といってみたところ、金子氏は両方の手で拳固(げんこ)を作ってみせて、神戸の鈴木は俺が(つぶ)したんだ。俺はこれを復興させなければ断じて死ねない。この事業に於て鈴木を復興させて、以前の鈴木になったところを見て死のうと思って居る。自分としては元気になる必要はないけれども、この通り元気を恢復(かいふく)した。君の健康状態を見て安心した。俺の仕事を助けろ。― とこういうことであった。

金子氏に()いて私が非常に感心したことは、神戸の鈴木は俺が潰したんだ。だから復興させなければ死ねないという力強い一言である。この責任感が即ち金子直吉である。世の中には自己の責任を如何に回避せんか、自分の責任でなかったことを如何に上手に言い(まわ)さんかとするものの多い中に、自分と同年の旧友が(きた)って主家鈴木を潰したのは俺であると、こういうことを言い切るに出合って私は言うべからざる爽快と涼味とを感じた。

戦争でも事業でも何でも、一将一兵、社長、重役、課長、一社員に至るまで、事の(わか)るるところは責任観念の厚薄如何にあるものと思う。(ここ)に金子氏との会談の感銘を述べて置く次第である。(抜粋)(随筆「閑居七旬」 昭和十七、七、二十四 大磯野荘に於て)

「金子直吉伝」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より


松方三郎(旧公爵松方正義の十三男として生まれ、兄幸次郎氏の養子に。前共同通信専務理事)
大体においては傍若無人(ぼうじゃくぶじん)といってよいようなワンマンで生涯を通じ、そうした人にありがちな、人を人とも思わぬようなところもあった幸次郎が、金子さんだけには一目も二目も置いていたようだった。彼の金子さんに対する敬愛の情は最後まで変わらなかった。 

金子さんの場合も幸次郎の場合も、その実業家としての末期において世間が与えた待遇は今から考えれば大いに問題であろうが、この二人の優れた実業家が種をまき、また育てた事業がいずれもその後大いに伸びていっている事実を見る時、こんなことは問題にするにも値しないような気がする。仕事そのものに打込み、事業を育てていくことが関心の中心であった人たちからすれば、その仕事なり事業なりが十年、二十年後にいかになるかということだけが問題であったろうと思うからである。その意味でこの二人の生涯は、まことに恵まれた生涯であったといえるのである。(抜粋)

「松方・金子物語」(昭和35年6月1日発行、著者:藤本光城、発行:竹内重一)より


ローランド・S・モリス(駐日米国大使)
尚ほ終りに臨み()をして一言個人的の思出を語らしめよ。(そもそも)も予が日米船鐡交換の契約を締結するに(あた)り諸君を代表し(ずう)ヶ月に亙り予と米國大使館の事務室に於て交渉を重ねられたるは(じつ)に金子直吉氏の賢明にして(しか)も忍耐力に富まれ機敏にして而も公平なる判断力と寛大の態度を持し()く幾多の困難を拝し遂に此の契約を(まと)められたるは予の不断称賛()(あた)はざる(ところ)なり。此くの如き偉大なる人物には(べん)護士(ごし)就職後二十五年來未だ(かつ)(せつ)(しょく)したる事なし。此の(てん)(かん)しこの偉人を市民の一人として有し居らるゝ神戸實業家諸君は大に日本實業界の誇りすべきなり云々(抜粋)

「日米船鐡交換同盟史」(大正9年12月30日発行、編纂兼発行:日米船鐡交換同盟会)より

◆日米船鉄交換契約締結後の大正7(1918)年5月28日、関西の交換同盟会員は駐日米国大使ローランド・S・モリス一行に感謝の意を表するため神戸・新開地の常盤花壇にて歓迎会を開催した。その際、鈴木岩蔵、金子直吉が停車場に一行を出迎えた。しばし閑談後に宴会場に移り、宴酣(えんたけなわ)にして金子直吉の歓迎挨拶があり、これに対しモリス大使が演説を行った。上記は、演説後半において金子直吉の功績をたたえるとともに、その金子の人物の偉大なることを表明した部分である。

この部分について「播磨造船所50年史」(昭和35年11月30日発行、編集:播磨造船所50年史編纂室)は次のように現代語表記で記している。

「一言個人的な思い出を語るが、そもそも()が日米船鉄交換の契約を締結するに当たって、諸君の代表となって、数カ月にわたり、アメリカ大使館の事務室において、予と交渉を重ねられたのは金子直吉氏であった。同氏が賢明でしかも忍耐に富み、常に機敏で公平な判断力と寛大な態度を維持し、よく幾多の困難を排して、ついにこの契約をまとめられたことに対して、予は称賛してやまないものである。このような偉大な人物には、予が弁護士就職以来25年の間一度も会ったことがない。このような偉人を市民の一人として持っておられる神戸市および神戸実業家諸君は、これを大きな誇りとされるべきである」(抜粋)


渋沢栄一(第一国立銀行、王子製紙ほか関与した企業は数百 日本資本主義の父)
あの人は大事を決するにも実に簡単明瞭で、その時(日糖問題で初めて会ったとき)は実に頭のいい人だわいと思った。正規の学問こそないが、道理を知るにはよほど明らかで事業家としては天才的だ。

ああいう人に申し分のない女房役がついていて、あの人の欠点を補っていたら実に天下無敵の人だ。(抜粋)


木村()寿()()()(三菱合資総理事)
一意(いちい)専心(せんしん)鈴木の事業を思い、国家の産業発展のために犬馬(けんば)の如く働き、仕事に没頭した人だ。まあ世界にも類がない活動家だ。全軍を一カ所に集中して戦う人だ。勝ち戦のときは見事に勝ちを制していくが、負け戦となると実に哀れで今回のような状況に陥る。(抜粋)


宮島(せい)次郎(じろう)(日清紡社長、国策パルプ工業社長、日本工業倶楽部理事長)
我々があきらめたことをどこまでも粘り強くやる。金子さんはあんなに押していくが、あれで決して暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)の男ではなく、キチンと目鼻を立てて粘り強く仕事をやっていく。あれほど頭が良くっても知ったかぶりや聖人ぶらず腰が低いし、どう見ても田舎親父だ。(抜粋)


星 (はじめ)(星製薬社長)
金子直吉は生まれた場所が悪かった。アメリカにでも生まれていたらフォード以上の人物になり得た。自分と事業を一致させた人だ。自分即ち事業だから、いくら働いてもくたびれない。禅坊主のいう三昧(ざんまい)の境に徹した人だ。日本の実業界であの人ほど馬力をかけて働く人は絶対にいない。(抜粋)


藤原銀次郎(王子製紙社長、商工大臣、軍需大臣)
世間ではあの人(金子)を山師とかペテン師かのごとく非難するが、私はそうは思わぬ。あの人は信念の人だ。ある人は己の能力を過信したといっているが、自分を信じること金子氏の如くして初めてあれだけの大事業がやり得る。天才か、狂人か、あれだけの人物は今後出てくるとも思われない。(抜粋)


牧野(もと)次郎(じろう)(不動貯蓄金銀行頭取)
ともかく一人であれだけの金を借り出すには、よほどすごい腕でないとできない仕事だ。しかし多くの事業家はいろんな方法で金を借り出すが、返すことを考えてやっているかどうかは非常に疑問だ。金子氏はどうでしたろうかね。(抜粋)


神田鐳蔵(らいぞう)(神田銀行頭取)
あの人に対する非難は、すべて自分の思う通りに押し通し周囲の意見を尊重しないところにある。これが今日の失敗の原因らしい。もう十年も若いと実に面白いことになる人だが、ああいう人がもっと日本にたくさん出ないと進歩しない。第二、第三の金子が出ないとだめだ。(抜粋)


久保田勝美(大信銀行頭取)
希代のやり手だ。だが、英雄ナポレオンもモスコウまで出たときにはやり過ぎで失敗した。秀吉も朝鮮へ乗り出したときはやり過ぎていた。調子に乗って締めることを忘れていると、次には失敗がやってくる。金子も惜しいかな、締めることを忘れていた。(抜粋)


岡崎國臣(くにおみ)(東京株式取引所理事長)
私が農商務省にいた時代にチョイチョイやって来られたが、頭のいい人で、計数に明るい点では学校出も及ばなかったらしい。事業が何よりの楽しみで、事業道楽というか、私欲の少ない、己を奉ずるの薄い人と信ずる。いまだかつて、氏が待合(まちあい)等に出没したということを聞かない。(抜粋)


犬丸徹三(帝国ホテル社長)
後世まで残るような大事業をやるには世の毀誉(きよ)褒貶(ほうへん)を気にしたり、小さな人間にとらわれていてはできるものじゃない。金子さんが外国貿易に尽瘁(じんすい)されて我が国商人の地位を世界的にされたことは、偉大な実業界の先駆者として尊敬を禁じえない。(抜粋)


(ごう) 誠之(せいの)(すけ

何さま精力が絶倫で、記憶が素晴らしくよくて、突飛な説を出して、一種の見識を持っている。あれは作られた人物ではない。生まれる人物である。稀に見る天才肌の実業家といってよろしい。けれども惜しいことには本当の締めくくりがつかない。全体としてまとまった統制がついていない。(抜粋)


堺 利彦(社会主義者、日本共産党初代委員長)
僕は金子君を知らないから批判の資格はない。しかし、あれだけの仕事は平凡人にはできまい。鈴木のいわゆる商業資本をもって工業資本に食い入り、これを上手に操縦し、この戦いには勝ったようだが、今度は国家全体の金融資本に滅ぼされてしまった。金融寡頭(かとう)政治の結束する道程で起こった一つの犠牲とみていい。(抜粋)


金光(つね)()(鈴木商店傘下の大正生命保険・東亜煙草の各社長、拓務大臣、厚生大臣)
知識欲の盛んなことは非常なもので、歴史は好んで読まれる。いわゆる約読で、前の方を一寸(ちょっと)、中を一寸、終りを読むといった風だが、熟読した我々より内容の観察が鋭い。金子氏はいつもポケットに二、三円しかない人だが、他人の遊ぶことに対して決して非難をしないから偉い。(抜粋)


野依(のより)秀一(ジャーナリスト、実業之世界社長)
金子さんは私心のない人だ。しかし自らの思うことをやりたいという意味では大いに私心をもっている男だ。天才だ、狂人だ、偉人だ、豪傑だ、大凡人だ。事業助平だ。大見識の男だ。釈迦も孔子もキリストも眼中にない男だ。形の上では失敗したが、金子さんの仕事が日本を世界に印象付けたことは功罪償って余りある。(抜粋)


鮎川(あいかわ)(よし)(すけ)(日産コンツェルン創始者)
自分のやる事業がこれから先どのように発展するかをよく考えてやったのは、彼ぐらいなものではないか。例えば人絹に対しあれほど力を入れたのは、先見の明があったといわなければなるまい。金子のやったことはいわば創作である。一個の名品である。(抜粋)

以上、「実業之世界」(昭和2年7月1日号)(経済人ら15人による金子直吉に関する合評会(がっぴょうかい)での言葉)ほかより


城山三郎(鈴木商店の興亡を描いた小説「鼠」の著者)
私は鈴木商店関係者から聞き取りをしたのだが、それらの人々のすべてが、慈父のように金子を敬慕し、鈴木を懐かしがっているのを知って驚かされた。金子は買い思惑だけで当てた戦時成金ではなかった。創意に富んだ「世界的商人」であった。船価の安いときに注文し、自らも造船所を持ち、安く仕入れた鉄材を供給し、買って儲け、作って儲け、売って儲け、と二重三重に収益を上げる仕組みである。

金子は国内の商売を「芸者と花札をやるようなもの」とし、外国から金を獲得することこそ、商売人の生きがいとしていた。金子には不平等貿易時代の屈辱の思い出がある。犬のように商館の外に追い出されたり、土佐人金子直吉を憤慨させたのだが、今こそ胸のすくような反撃に成功したのだ。(抜粋)

「大番頭金子直吉」(平成25年9月8日発行、著者:鍋島高明、発行:高知新聞社)より

金子直吉に関する関係者・各界人の言葉シリーズ⑤「鈴木商店研究者の言葉」

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