柳田富士松に関する関係者の言葉シリーズ①「鈴木家・柳田家の親族の言葉」

潔癖・品行方正な砂糖事業のエキスパート

■鈴木岩蔵(鈴木岩治郎の三男、帝国人造絹糸初代社長、太陽曹達初代社長、太陽鉱工初代会長)
"富士松さん"、"直吉どん"とは僕が物心ついた時以来呼び馴れた懐かしい名前である。本家とは煉瓦造りの砂糖倉庫を一棟隔て、東隣の洋糖商會に柳田氏は起居し、金子氏は本家の店で他の店員と同居していたのと魚釣に長じて狩猟等にも私と共通の趣味があったで行動をともにした事が多かった。

柳田氏は砂糖直輸入の大(せん)(だつ)で、一生を世界砂糖貿易にささげた程のエキスパートで、鈴木商店を世界的砂糖商に仕上げた人であった。金子氏が次々と新事業を発展させるに連れて、氏のよき女房役として商業部門を担当して金子氏に後顧(こうこ)(うれい)をなからしめたものである。

青年時代の柳田氏が砂糖業界の新人で然も先覚者であった事は、当時東京海上保険会社大阪支店長であった前の文部大臣、故平生(ひらお)(はち)三郎(さぶろう)氏が関西における事業発展に最大効果を得た事件の主人公が柳田氏であった事をよく人に話された。

その事件というのは、我洋糖商會が北国の或る得意先の荷主には内證(ないしょう)で保険を付けて置いたのが物をいったのである。現今では海上保険を付ける事は常識で商人の日常茶飯事であるが、その頃田舎では保険の事など種々勧めても中々聴入れられなかったのである。保険の先覚者であり進歩主義者の柳田氏はFOBで得意先に買った様にして、実はCIFで仕切ったのであった。

荷主は案内の荷物船が沈んだとの報を受取るや、一家浮沈の一大事とばかり青くなって飛んで来たのも無理はない。全財産を此の荷に掛けていたのである。神戸に着くなり店へ来てみれば、現実は予想に反し以外にも彼が投じた資金以上の利益迄見込んだ金が待っていたのである。此の規模の保険教育が北国商人仲間で大評判となり、平生、柳田両氏共に()の営業振の一大広告をしたのであった。その時その荷主から贈られた記念品が僕の家に未だに残って居る。(抜粋)


■柳田義一(柳田富士松の長男、太陽鉱工監査役)
昭和二年のパニックは、鈴木商店を破綻の悲運に追い込んだ。これを知った父は、病床に座して厳粛な面持ちで私に語った。「金子さんとの一生を賭した自分の事業も、どうやらこれで終わりに来たようだ。嘆かわしいといえば泣き言になる。しかし、将来あるお前達若者にとっては、またこれが最上の試金石ともなるだろう。悲観は絶対禁物だ。られた幹からくすのきのように芽のふく日もある」

今も耳朶(じだ)にこびりついてはなれない言葉である。翌昭和三年二月九日、父は事後を金子翁に託し六十二才(満60歳)をもって世を去った。通夜の枕辺にかけつけた金子翁は「お前のお父さんとは四十年もの間、口喧嘩一つしなかった」と云って慟哭し、よね刀自も「人にさからうことなく、几帳面な素直な生涯を店の為に捧げたよ」と涙を落された。

父は慶応三年八月三日、大阪の辰巳屋、松原恒七の長男として生まれた。十三才のとき、叔母はるの(こん)家先(かさき)である柳田卯兵衛の養子にもらわれたが、六年後の明治十八年にふとした手違いから養家が倒産した。ときに父十九才、卯兵衛はそれまで前記辰巳屋で習得した輸入(とう)の商売をしていた。

復興見込立たずとみてとって、父はかつての辰巳屋の暖簾を神戸で継いでいる鈴木商店に入り、初代岩治郎夫妻の鞭撻のもとで砂糖の売り込みに専念した。当時鈴木商店は栄町通四丁目、元岡部印刷の裏通りにあり、父は夫妻を親のように敬慕していた。

父が鈴木商店に入った翌年、土佐から金子直吉が迎えられ、樟脳の販売に従事された。これが金子翁との終生(かん)(ぽう)の交わりをなすきっかっけとなり、互いにいたわり、いたわれつつ商売に励んだ。

大里製糖所開設当時には「レンガ砂糖」の挿話が残されている。砂糖製造と云っても当時としては何分手慣れない仕事のことゆえ、斉藤某という技師が精製に失敗して、レンガのように固まった砂糖を造ってしまった。これが工場内のいたるところに山積されてあると云うので、その仕事に困った父が、熟慮の末、単身上海に乗り込んで中国でさばこうというのである。

いかに中国といえども、レンガのように固まった砂糖では見向きもしまい。そこで、謹直な父にしては奇抜な知恵を絞った。当時通用の五銭白銅貨があったが、これを幾枚か砂糖に投じ、上海在住の阿東という砂糖仲介人に会って「今度鈴木から積み込んできた砂糖の俵に、どうしたことか五銭玉が入っている」と中国人仲間に吹聴させた。これが効いたか、思わぬ反響を呼んで、またたく間にこのレンガ砂糖がさばけ、父は凱歌をあげて引き揚げてきた。

ところが、内地にあった金子翁もさるもの、父の不在中精製失敗の原因を探求され、砂糖にはビスコと云うものを加えなければならないことを知って、父の帰国時には真白なさらさらした砂糖を造っていた。そこで、これの製造を日産四トンに増し、鈴木の砂糖販売が全国に網をはるようになった。ちなみに、現在まで使われている砂糖の銘柄記号は、すべて父によって名付けられたものである。

私の家の家訓らしいものはといえば、祖父恒七から始まっている。恒七が父の義兄藤田助七氏や鈴木岩治郎氏に云い残したものだが、私も父からそれを云い聞かされた。

「商売のコツは腕である。これは教えて教えられるものでなく、習って習えるものではない。いくら資本があっても商売が繁昌するものとばかりはいえないのだ。丁度金持ちの親が、息子が店を持つのに惜しげもなく多くの資金をおろすのに似ておろかなこと。息子に腕がなければ、息子は資金ばかりをあてにする。金が無くなると泣き顔になって、信用とか誠実を忘れ、腕を磨こうとしないものだ。

商売には常に相手がある。相手は生きていることを知れ。取引には千変万化で機微を察するに細かい心と決断を得る度胸が必要だ。その時にこそ、知らず知らずの間に苦労して覚えた商売のコツがものを云うのだ。コツは尊い知識である」(抜粋)

以上、辰巳会・会報「たつみ」第21号(昭和49年8月10日発行)より


■柳田義一
子煩悩  家庭に在りても極めて厳格でしたが、度々子供の不幸を見た関係でもありましたが、店から帰宅、子供が寝ていると必ず一人一人額に手をあてて体温を見て、それから服を脱いで夕食に向っていました。

潔癖  幼少の頃からの潔癖家で、若い時自分の食膳には必ずふきんを掛けていたのですが、併し()のふきんの汚れてゆくのには気がつかず、洗わずに怠って来た事は丁度(さん)(すけ)垢だらけのたぐいだったと申していた事がありました。

娯楽  遊興道楽囲碁等の勝負事は一切やらなかったのですが、折々寄席を聞きに行く事が可成(かなり)好きでした。上京した時には小さん等の名人会には屡々(しばしば)足を向けました。

酒、煙草  酒は交際以外自宅で飲酒する事は稀でありましたが、煙草の方は可成嗜好しました。大抵は敷島を愛用、両切(りょうぎり)は用いなかったです。

砂糖の味覚  若い頃から砂糖専門でもありましたが、砂糖の種別を味覚で当てました。小生を連れて伊勢参宮した時、名物赤福餅を買って呉れました。義一、此の餅の(あん)はどんな砂糖で作られているかと云われ、余り美味しかったので(さん)(ぼん)(じろ)でしょうと答えたら見事落第。()れは赤双であると教えられたことでした。

旅行  商用以外伊勢神宮、宮島詣、別府等に出掛けました。明治三十年頃、よね子刀自のお供で喜多奈良七等数名で宮島(まい)りをした時でした。宿屋で朝起きた時、父のフランネルの腰巻が紛失し大童(おおわらわ)になって探して見たが判らない。仕方無く諦めて宿を出て行った(ところ)、数町程して喜多氏のかついで行く手荷物毛布の中から源氏の白旗然となびいているのをよね子刀自が発見され、それが父の物であることが判るに至り、大笑のうちに()の旅行を終えたと云う事です。

食道楽  家庭では粗食を取っていましたが、特に好きなものはちり(おこぜ、こち等)、又柳川鍋、(ひがい)、鮎の如き川魚で、()の季節毎に頂いていました。外では大阪平野町の天寅梅月の天麩羅(てんぷら)、神戸では縣廳(けんちょう)寶屋(たからや)の長崎料理、鎭台筋の紀の松ずし、居留地弘養軒の海老サラダ等にはよく知己を連れて行きました。

前川清二老の手記  遠縁に当る前川清二老の手記に父との対談話が書かれていた。「商売は(すべか)らく店舗で取引をすべきである。商慣習とでも申すか、往々料亭等にて取引をやっている事は間違った考えである。商売にかこつけ、誰もが料亭を根城に酒色に(ふけ)るが如きは外道(げどう)で、遊んでも良いが商売を切り離しての歓談は男性的で悪影響はない」云云(うんぬん)

病中談  鈴木商店破綻を紙上で見た時は病床に座し、厳粛な面持ちで「一生を賭しての鈴木事業の破綻は実に嘆かわしいが、お前や彦次等の若いものにとっては却って将来大いに伸びて行く上の最上の試金石ともなろうと信ずる。徒に悲観は禁物だ」と申しました。

病中眠れぬままに小生に夜中四方山の話をした上、義一、此の世の中には恩を仇で返す人は数多くあるが、どうかお前は仇する人には必ず恩を(もっ)(むく)ゆる事に留意せよ、と之が私に対する最後の(くん)(げん)ともなりました。


■柳田彦次(柳田富士松の次男、日本金属化学社長
大正三、四年の頃(私が小学校三、四年)神戸市中のあちこちにサクラビヤホールが出来た。三宮神社の近くや湊川新開地であったと思う。父は夕食後よく私等を連れて此のビヤホール迄散歩に出掛けた。酒もビールも飲まない父はコーヒーや菓子を註文して支配人にホールの景気を尋ねていた。

此の頃の花形横綱、太刀山がサクラビール以外のビールを飲まないというので、鈴木商店は挙げて太刀山の後援をしていた。サクラビールの印の附いた化粧廻しを贈ったことや、ビールの広告用ポスターが地球を踏ん張った太刀山の姿であった事など、サクラビールを通じての太刀山の印象は子供心に殊更深いものがある。

学校の綴方(つづりかた)の題に桜というのが出たので、桜が花の王様であることを縷々(るる)書き並べて、「ビールにもサクラビールというのがあります」と書いたのを父が読んで大笑した。よね刀自が宅を訪問せられた時、わざわざ父は()の綴方を見せて、二人で笑い(なが)ら「子供の前では悪いことは出来ませんな」と言っていたことを思い出す。桜が花の王様ならサクラビールはビールの王様だと思っていた当時には、何がそんなにおかしいことなのか解らなかった。

数年前、金子翁が「サクラビールの販売程厄介なことはなかった。ビールの事業は二度とするものでない」と言われたことがあるが、ビールに対する私の幼少の印象の深いのも、之の販売に父も相当腐心していたものだろうと想いを新たにしたのである。

私は小学生時代を通じて(父の五十歳前後)朝飯の前には、父の座の前に出て毎朝習字をさせられた。時偶早朝の訪問客があっても客の前で構わず手習いをさす。客に向って時折父が言っていたことに、「私が子供の頃寺子屋で習字が嫌いで、手習草紙に(すずり)の墨を流して真黒にして如何にも字を書いて草紙が黒くなった様に見せかけた。子供の頃のズボラを今更後悔しているので、息子には此の(てつ)をふますまいと思っている」と言っていた。

此の早朝の習字の時間中に毎朝父は東京へ電話するのが日課であった。何時も通話相手は東京支店長の窪田駒吉氏で、大概砂糖の商売の話だったと思う。之が為、座敷へ卓上電話を引いていた。だから私の習字には片時も目を離さず、電話で話している父であった。

何時の頃からか朝の日課がもう一つ増えた。五時には起きて四五丁ある諏訪山温泉(冷泉を沸かした温泉)へ朝風呂に出掛けることである。五時には私を無理やりにたたき起こして温泉へ引っぱって行く。風呂場で朝の洗面をして最後に露天の冷泉で泳いで帰る。

此の日課が増えた理由は父の頭のシラクモのせいである。頭が此の皮膚病でかゆいが、掻くと拡がるので後頭部を絶えず平手で軽くたたいていた。一度別府へ湯治に行ったが、却って悪くなったので医者の意見を入れて自宅の近くの此の温泉へ行ったところ、効能が直ちに(あらわ)れたので大変な信者になった。後には朝風呂の顔なじみが相当出来て、温友会という会をつくっていた。

父は時偶、私等を連れて観劇に行った。曾我廼家(そがのや)十郎の喜劇と天勝の奇術が神戸へ来た時は必ず行った。普通の芝居は子供に良くないと思ったのか、全然連れて行って呉れなかったと思う。観劇や散歩に出掛ける時には父が母から小遣いを貰っている姿を思い出す。平常、父は懐中に大した金を持っていなかった様である。

父は別府の温泉が余程好きだったらしい。晩年軽い中風が出てからは永く此処(ここ)で養生したが、余程若い頃からのなじみの温泉だった様である。近年鈴木岩治郎氏(二代目)が私に話していたことに、「君の親父は余程以前から別府は発展するところだと言っていた。今の本通りの流川通りが、()の名の如く未だ川が流れていた頃から此の温泉町の発展を楽しみにしていたが、予言通りになった」とも。(抜粋)

以上、「柳田富士松傳」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より

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