坂本寿

鈴木商店の“ボンさん”から始まり、日本発条を世界的な企業へと導く

坂本寿

生年 明治35(1902)年3月31日
没年 平成元(1989)年8月16日 

ぶり・かつお漁で有名な高知県高岡郡久礼町(現・中土佐町久礼)の三方山に囲まれた漁村に出生。父・竜平は事業に失敗し全財産を失う。母・ヨネに「人に絶対に負けてはならぬ」と厳しく育てられる。ヨネは坂本の人格形成の恩人であった。

小学校を卒業し高等科二年を終え、競争率の高い高知商業高校(市商)を受験するも失敗。一旦他の商業高校に入学したが猛勉強の末に翌年、高知商業の編入試験に合格し、同校の2年に編入する。

高知商業3年のとき母が他界。父の借金だけが残され食べることもままならない状況に陥るが、一念発起して勉学に励んだ結果、卒業前には学力優秀者が帽子に飾る銀モール(金モールに次ぐ栄誉)を贈られる。

高知商業卒業(21回生)時に、同校は坂本を一流銀行に推薦するが、坂本は学閥がなく金子直吉のように自分の力で偉くなれると聞いていた鈴木商店の入社試験を受けることを決意。各校のトップクラスが集まる鈴木商店であったが大正11(1922)年、坂本は見事試験に合格し、“ボンさん” (見習いの小僧)として鈴木商店に入り神戸・海岸通の本店で働くことになった。

当時鈴木商店では見習いの“ボンさん”から正社員になるには、2年後に神戸高商から試験官を招いて実施される9科目の学科試験を受ける必要があった。坂本は厳しい日中の仕事の傍ら、“忍”の一念で2年間神戸高商の夜学に通い続け、同期18名の“ボンさん”の内、坂本ただ一人合格する。

晴れて正社員になった坂本は、鉄材部の経理担当として配属される。上司には同じ高知商業出身の楓英吉(市商9回生)(当時、鉄材課長代理)と井上清(市商16回生)がいた。坂本はここで楓から「あらゆる数字を頭の中にたたき込んでおけ」と厳しく鍛えられ、プロの経理マンへと成長していく。

昭和2(1927)年4月に鈴木商店が破綻すると、坂本は優秀な経理マン故に破綻の後始末のため1年間鈴木に残された結果、大企業への就職のチャンスを逸する。昭和4(1929)年、27歳のとき楓の紹介により大阪の中小企業、日本亜鉛鍍金(後・日亜製鋼)に経理担当として入社するが、他の鈴木出身者が1年足らずで退職するなど業績も仕事も想像以上に厳しい会社であった。

一方、楓は昭和3(1928)2月に鈴木商店の残党組40人によって設立された日商(現・双日)の鉄材部の責任者を経て取締役に(後・専務取締役)、井上は大阪の鉄鋼問屋、井上商店へと転身した。しかし、その後も3人は楓を中心に年2、3回開いていた、旧鈴木商店鉄材部仲間の集まりを通じてコンタクトを欠かさなかった。

いつしか、坂本は日亜製鋼の調査課長として“電気計算機”の異名を持ち社長の信頼も厚い経理マンに成長していた。そんな最中の昭和12(1937)年夏、坂本は自動車用ばねの将来性を嗅ぎ取った井上商店の専務取締役・井上清から呼び出しを受け、「ばね鋼の注文が関東方面から殺到しているので、その背景と今後の見通しを調べてくれ」と依頼を受ける。

坂本が八方手を尽くして情報を集めてみると、自動車製造事業法の成立(昭和11年施行)以後自動車用ばねの需要が急増しており、自動車の生産が近い将来100万台に達するのも夢ではないことが判明する。楓にも相談すると、全面的に同意を得る。“ばね”の将来性を鋭く見通し、一貫生産へと夢を膨らませた3人はさっそく事業計画を練り、坂本は勤務の合間をぬって買収先として芝浦スプリング製作所という町工場を探し当て、買収工作に着手する。

日亜製鋼は順調に成長を続けていたが、「自分の力で会社を興してみたい」と考えていた坂本は、社長から強く慰留されるも断腸の思いで同社を退職し昭和13(1938)年の暮、36歳にして神戸を離れ上京する。

昭和14(1939)年7月、芝浦スプリング製作所を買収すると8月に楓が初代社長(日商の役員を兼務)に、坂本は総務部長に就任。9月8日には社名を日本発条(略称:NHK)に改称(日本発条創業)し、井上は取締役に就任する。創業時の出資比率は日商50%、井上商店40%、三沢寛祐(三沢商会社長)10%で、従業員はわずか50名ばかりであった。

以後坂本は、楓から新会社への参加を打診され入社を決断した大林組工作所(現・内外テクノス)の労務係長でやはり高知商業出身(24回生)の藤岡清俊(営業部長、後・第四代社長)との“土佐っぽコンビ”で戦中戦後の幾多の困難を乗り越えていく。

昭和15(1940)年11月、横浜の磯子に同社発展の原動力ともいえる “新理想工場”と自負する最先端の横浜工場が完成。坂本は戦時下の苦難を凌ぎ切ると、戦後のどん底ともいうべき時期には鋸・包丁・鎌を作りながら再建の道を探り、一方では夏祭り、盆踊り、相撲大会などを催して社員の士気高揚にも腐心した。

業界では後発組の日本発条であったが、昭和30年頃には業界首位にまで成長。昭和33(1958)年5月には最大のライバル会社であった大同発条(大同製鋼のばね部門)との対等合併を実現するとともに海外市場の開拓にも注力し、世界屈指の“ばね”メーカーとしての地位を確立する。

坂本は昭和17(1942)年1月、取締役。昭和19(1944)年5月、常務取締役。昭和26(1951)年6月、専務取締役。昭和32(1957)年9月、副社長。昭和34(1959)年4月、第三代社長に就任し昭和45(1970)年11月まで務める。

昭和45(1970)年11月、後輩の藤岡清俊にバトンを渡し会長に就任。昭和51(1976)年6月、名誉会長。神奈川経済同友会代表幹事を20年、日本ばね工業会会長を15年務め、横浜商工会議所副会頭、神奈川県産業教育振興連合会会長などを歴任。昭和42(1967)年、藍綬褒章受章。昭和47(1972)年、勲三等旭日中綬章受章。昭和52(1977)年、神奈川文化賞受賞。昭和56(1981)年、紺綬褒章、横浜文化賞受賞。中土佐町名誉町民。

坂本は自伝「雲は流れる」の中で「今でも金子直吉先生の名前を口にするたび、ぼくは正座をせずにはいられない。それほど畏敬の念が強い」と語っており、終生金子直吉を尊敬してやまなかった。

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