山地孝二

卓越した語学力を駆使して 世界を舞台に情報収集活動

山地孝二

生年 明治20(1887)年
没年 昭和49(1974)年7月13日 

香川県丸亀の生まれ。丸亀中学を卒業後、丁稚見習いとして鈴木商店に入社。お家さん・鈴木よねの勧めもあり勤務の傍ら夜間外国語学校に通い、英語、スペイン語を習得。やがて語学力を認められて明治39(1906)年頃、上海支店勤務を経験している。

大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発すると鈴木商店も世界各地から情報収集する必要から、海外の駐在員事務所でカバーできない地域について急きょ移動出張員の派遣を決定した。移民日本人が多く住む中南米の情報収集もあり、英語、スペイン語堪能な山地の派遣が決まった。

山地が残した遺品には、膨大な写真を収めたアルバムがあり、そのタイトルには山地が訪れた地域・国々が英語で記されている。                                1917年~1921年に訪れた地域・国:ヨーロッパ各国、北米、南米、中米、メキシコ、南アフリカ、蘭領東インド(今日のほぼインドネシア)、仏領インドシナ、海峡植民地(Straits Settlements:英領マレー)、北・南支那、満州、シベリア、朝鮮、台湾

これらの国々を日本の客船で巡っているが、戦況からドイツには立ち寄れなかったと記されている。客船名は、帝国丸、日幸丸、仁川丸、博多丸、天洋丸などの名が見られ、客船の甲板上で外国人との交遊スナップも残っている。また、出張中のロンドンのホテルで撮られた神戸製鋼所常務時代の田宮嘉右衛門と大阪高工(現・大阪大学)平野教授の珍しいツーショットも残されている。

約4年間にわたる長期出張中には、インドネシアジャワ島スメンコウ製糖工場視察風景のほか、鈴木商店シンガポール支店,南米各地の港湾荷役風景など各地での情報収集活動の模様が写真により記録されている。 

こうした移動出張活動の最後に南米アルゼンチン・ブエノスアイレスに居を構え、自宅兼駐在事務所とした。山地ただ一人のワンマンオフィスで駐在活動を始めた。

山地はブエノスアイレス時代に一時帰国し、出張活動中の縁から田宮嘉右衛門夫妻の媒酌により大阪で「きぬ」夫人と結婚式を挙げており、大正11(1922)年駐在を終え帰国すると鈴木から神戸製鋼所に転籍している。

なお、山地夫人・きぬは、大阪の実業家「唐木屋」代表者で、鈴木商店の北港製糖(台湾)常務取締役の日向利兵衛の姪にあたり、神戸製鋼所でタイピストとして働いていた。また、日向は鈴木商店・お家さんとも昵懇の間柄でもあったほか、建築、美術・工芸に造詣が深く、熱海に建てた別邸はドイツの世界的な建築家・ブルーノ・タウト設計で我が国に現存する唯一の建築物として知られ、今日、熱海市の所有となり重要文化財に指定されている。

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