日本セルロイド人造絹糸(現・ダイセル)設立の歴史⑤

セルロイド生産に終止符、スペシャリティ・ケミカルの分野で世界展開

大正中期、わが国は写真材料の大部分を輸入に頼っていたことから、大日本セルロイドは大正8(1919)年にセルロイド事業に続く新規事業として、写真フィルム事業への進出を決意。昭和9(1934)年9月、写真フィルム事業を分離し富士写真フイルム(現・富士フイルム)を設立する。

富士写真フィルムは、大日本セルロイドの全面的な支援と協力を得て、総合写真メーカーとして大成し、現在は液晶ディスプレイの材料や、医療・医薬、機能性化粧品、サプリメントなどメディカル・ヘルスケア分野へも進出。新規事業を積極的に展開する世界的企業に成長している。

大日本セルロイドは創立当初から原料である硝酸セルロースの弱点、すなわち易燃性への対策を大きな課題として取り上げ、大正9(1920)年、酢酸セルロースの製造研究を開始し、昭和4(1929)年には「アセチロイド」の商標を登録。昭和16(1941)年3月には、カーバイトからアセチレン、アルデヒド、酢酸、無水酢酸、酢酸セルロース、酢酸エチル、アセトン製造に至る新井工場(新潟県中頸城郡新井地区)が完成。酢酸セルロース製造のための最重要設備である無水酢酸製造設備については、高純度の製品ができるケテン法が採用され、ケテン誘導体など現在のスペシャリティ・ケミカル事業につながっている。

昭和12(1937)年の日華事変以降、政府の経済統制は軍需品確保を優先課題として本格化した。昭和14(1939)年9月には第二次世界大戦が勃発し、昭和16(1941)年12月の太平洋戦争突入後は、同社の全工場が発射薬用硝化綿、航空機用旋回機銃部品、高射砲用発射薬、航空機翼結合金具などの軍需生産に総動員された。

昭和20(1945)年8月に終戦を迎えると、同社は直ちに戦後の再建に着手した。堺、神崎、東京の各工場が戦禍を受けたが、残った設備を活用して逸早く軍需品から民需品生産への転換をはかり、各事業を再開した。昭和20年代後半から日本経済は高度成長期に入り、合成高分子プラスチックの台頭により、セルロイドの需要は低下していった。

昭和49(1974)年には国内のセルロイドの生産がダイセル1社に集約される。そして平成8(1996)年には製造拠点を中国(上海)に移管し、ついに国内におけるセルロイドの生産に終止符が打たれた。

同社は昭和41(1966)にダイセル(株)、昭和54(1979)年にダイセル化学工業(株)、平成23(2011)年に(株)ダイセルと商号を変更し、今日に至っている。現在のダイセルは、酢酸セルロースを中心とする「セルロース事業」、酢酸とその誘導品やLED封止剤などの機能化学品を展開する「有機合成事業」、高機能エンジニアリングプラスチックなどの「合成樹脂事業」、自動車エアバッグ用ガス発生装置などの「火工品事業」、水処理から食品工場などの生活関連産業に至るまで幅広い分野におよぶ「メンブレン事業」などを主要な事業とし、「ベストソリューション実現企業」を目指し、スペシャリティ・ケミカルの分野で世界展開する企業となっている。

なお、素材産業版カイゼン活動として様々な業界から注目を集めている「ダイセル方式」は、同社の網干工場において形づくられた、「次世代型化学工場」をコンセプトとするプロセス型化学工場における革新的な生産方式である。同方式は、すでに日本を代表する大企業を始め数多くの企業に導入されており、今も多くの企業が網干工場の見学に訪れている。

  • ダイセル東京本社(現在) 
  • 網干工場内の総合研究所(現在)
  • 多くのクスノキが植栽されている広大な網干工場の敷地(現在)

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