日本セルロイド人造絹糸(現・ダイセル)設立の歴史②

資金難・技術水準の低さから創業以後、苦闘の時代が続く

セルロイド工場の立地条件として欠くべからざるものは「水」である。セルロイドの原料である原紙の製造および硝化綿の洗滌には多量の水を使用し、しかも水質の化学的純度が製品仕上りの良否を決定する。日本セルロイド人造絹糸の場合もこの観点から畿内の目ぼしい河川の水質調査を行った結果、輸送の利便性も考慮され兵庫県の揖保(いぼ)川河口の網干(あぼし)町に決定した。

工場建設は、建設地が元々湿田であったため難工事となった。まず敷地の埋立てを行い、その上に赤煉瓦をもって建築を開始した。社宅、事務所も建設が始まり、明治43(1910)年に当地に移る。これと相前後して洋館(第一クラブ図書館、第二クラブ宿泊所)などが建設された。工場の技術的指導に関しては、ロンドンから派遣されたアムトルの推薦により、イギリス人・クリーンを技師長とし、ドイツ、イギリス、スイスから計6名を招へいし、これに西田傳太郎、武藤邦矛等邦人の技師を交えた。これら外国人技師の宿舎として建設された建物が、現在資料館として一般公開されている「ダイセル異人館」である。

外国人技師達は経費を二の次として設備の理想的完成を期したので、諸機械費のみで資本金を超える状況であった上に、工場建設費用も予算をはるかに上回ったので、これを銀行借入や社債発行により賄うという極めて苦しいスタートであった。

こうして工場の操業はようやく緒についたものの、その技術たるや未熟で不良品山のごとしという状況で、じりじりと会社の経営を困難に陥れていった。その後も多くの技術者が苦心に苦心を重ねたが、急激な技術的改良を期待することは困難で、会社の不動産はすべて抵当に付され、職工への支払いは不能となり、社長の個人資金を充当するほどであった。当時、次のような会社の苦境を示す()()をきかせた(ふう)(よう)が発表されている。

1.圧搾室の屋根裏走行クレーンのモーターと歯車の交響音
モウカラン、モウカラン、モウカラン(急調)

1.水圧ポンプのスチームエンジンの運転音
ダンダンビンボ、ダンダンビンボ、ダンダンビンボ(急調)

1.汽鑵室(きかんしつ)エコノマイザアの送風扇のスチームエンジン排気音
ソーン、ソーン、ソーン(緩調)

そんな悲話の中に、一方では朗らかな民謡が聞かれた。

網干港の、セルロイド會社の煙突は、太くて、(まる)くて、エエ、吐き出す(けむり)は、眞黒ケノケ、オヤ眞黒ケノケ

当時全国を風靡(ふうび)した「眞黒ケ節」の替え歌であるが、まったく笑えない状況だったのである。

大正元(1912)年12月、とうとう松田茂太郎、田中常徳の両専務が退職し、近藤廉平に代わって監査役の田邊定吉が社長に、西田傳太郎が専務兼技師長に就任。クリーン以下の外国人技師は相当の謝礼を支払って解任し、西田以下の邦人技師は苦心を重ねて自力で技術的な問題を解決していった。翌大正2(1913)年元旦には岩井商店の代表者として西宗茂二が工場支配人として就任。西宗は着任するや、事務所を門の傍らの守衛室の隣に移し、自ら陣頭指揮をとった。

このころ、堺セルロイドにおいてもほぼ同様の理由から経営難に陥り、創業以来7年間無配を続けるという状況であった。明治44(1911)年9月17日の東京朝日新聞には当時の両社の苦境の様子が詳細に描かれている。

日本セルロイド人造絹糸(現・ダイセル)設立の歴史③

  • 網干工場のシンボル、赤煉瓦造りの 1号ボイラー(現在)
  • 外国人技師のために建設された現・ダイセル異人館  
  • 外国人技師のために建設された現・衣掛クラブ

TOP