「天下三分の宣誓書」の執筆時期

「天下三分の宣誓書」は、いつ書かれたのか?

「天下三分の宣誓書」には、日付が11月1日のみ記されていることから、近年まで大正6(1917)年とされてきた。この手紙を受け取った高畑自身も「私の履歴書(昭和47年)」で大正6年と記したほか、白石友治が「金子直吉伝(昭和25年)」の中で、また桂芳男も「総合商社の源流 鈴木商店(昭和52年)」で、さらに柳田義一も「金子直吉遺芳集(昭和47年)」でいずれも大正6年としている。これは、「金子直吉伝」の日付を踏襲したものと推察される。

金子直吉よりこの手紙を高畑誠一に託された小川実三郎は、後年、昭和40(1963)年に辰巳会会報「たつみ」に寄稿し、大正4(1915)年この手紙を託されロンドンに赴任したと述べている。

鈴木商店研究家で兵庫県立芦屋高等学校教諭の齊藤尚文氏は、この手紙の執筆時期に疑問を持ち、鈴木商店の海運事業の研究から糸口を見出し、綿密な調査と裏付けにより大正4(1915)年であることを証明した。平成28(2016)年に史訪会会報「東洋史訪」に「天下三分の宣誓書に関する考察」 として発表された。

関連資料

  • 「天下三分の宣誓書」日付
  • 「天下三分の宣誓書」高畑誠一宛て封筒
  • 「天下三分の宣誓書」抜粋

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