鈴木商店の再建

台湾銀行による鈴木商店の改革は、内部から思わぬ反対が

大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦の戦時景気によって、一気に総合商社化を加速した鈴木商店は、運転資金のほとんどを台湾銀行からの借り入れに頼る借金経営に陥っていた。金子直吉の旺盛な事業欲を抑えることができず、鈴木商店の“機関銀行化”した台銀は、大正11(1922)年にはその貸出額の3割が、また ピーク時の昭和元(1926)年には6割超が鈴木商店一社向けという異常な事態になった。

鈴木に対する貸出しが膨れ上がる中、大正11(1922)年、台湾銀行による鈴木商店の改革が断行される。元副頭取の下坂藤太郎を派遣し、「鈴木合名会社」と「株式会社鈴木商店」の分離による機構改革を主導して、金子の独断専行、暴走を抑え込もうと試みるも金子のワンマン体制は変わることがなかった。

大正14(1925)年、台湾銀行の頭取が森広蔵に代わり、さらなる鈴木商店の改革を進めようとする。金子を経営から外し、持株会社「鈴木合名会社」の理事として事業の整理に当らせ、事業会社の「株式会社鈴木商店」の経営を高畑誠一を中心とする学卒派若手に任せるという改革案で鈴木の再建を図ろうとした。

こうした折、大正15(1926)年、ロンドン支店長を務めた高畑が鈴木商店二代目社長・岩治郎の長女ちよを娶って14年振りに帰国。台銀の改革案が進むかに見えたが、高知商業出身者を中心とする「土佐派」から、金子を経営から外して鈴木商店の再建などあり得ないと猛反対が起る。

鈴木商店躍進の主役は、いうまでもなく金子だが、その手足となって働いたのは窪田駒吉を始めとする「土佐派」と呼ばれた人たちであった。高知・名野川村出身の金子は、高知出身者、取り分け高知商業(市商)の出身者を多く採用した。高知商業OBを中心とする「土佐派」が形成され、鈴木躍進を牽引する。鈴木商店社内の主要ポストは、「土佐派」によって占められ、“鈴木商店の四天王”と呼ばれた「窪田駒吉、平高寅太郎、高橋半助、谷治之助 」のうち高橋を除く3人までが高知出身者である。

関連リンク

  • 台湾銀行神戸支店
  • 下坂藤太郎(副頭取時代)
  • 現在の高知商業学校
  • 神戸高商(明治38年)

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