日商(現・双日)の歴史⑦

戦後も生きる鈴木商店人脈

昭和25(1950)年に、商社マンの海外出張が解禁されると、高畑誠一は真っ先にインドのタタを訪問し、銑鉄の輸入を再開させる。昭和26(1951)年には、高畑自ら交渉し、民間貿易再開後初の輸出船舶の仲介、昭和27(1932)年に戦後初のニューカレドニアからのニッケル鉱石の輸入、昭和31(1956)年に日本初の鉄道輸出等を成功させた。

戦後、旧鈴木商店系の企業が結束し、高畑の人脈が活かされたのが、FAPIG(第一原子力産業グループ)の結成である。

昭和30(1955)年の鈴和会(旧鈴木・主力企業の親睦会)において高畑は神戸製鋼所の浅田長平社長に原子力に取り組むための旧鈴木を中心としたグループを結成できないかと意見を求め、非財閥系の重電機メーカーである富士電機の協力が必要ということになった。高畑の神戸高商時代の同期には永井幸太郎、出光佐三(出光興産店主)、和田恒輔(富士電機・富士通社長)がいて、「1年間夕食をスキ焼きとする(=スキ焼を食べ続ける)」と約束するほどの仲であったため、高畑は和田恒輔と相談し話が進んだ。そして富士電機は古河系ということもあり、同グループの富士通信機、古河電工、古河鉱業、旭電化、日本軽金属、横浜ゴム、神戸工業が参加。そして松方幸次郎が生み出した川崎系である川崎重工業、川崎製鉄、川崎航空機も本グループに合流する。更に旧鈴木、川崎、古河系の主力銀行は第一銀行であったため、同銀行も加わり合計16社で第一原子力産業グループ(FAPIG)が昭和31(1956)年に結成され、そして現在に至っている。

昭和34(1959)年、日本原子力発電株式会社はFAPIGと東海発電所建設に関して単独交渉権を獲得し、日本で初めて建設する原子力発電所はFAPIGが推す発電所が採用された。

高畑は、戦後の日商の飛躍のために新たな人材を求め、母校の神戸高商(当時、神戸経済大学)を首席で卒業した海部八郎をスカウト。金子直吉の再来を期待したともいわれている。

海部は、昭和23年に日商20周年記念行事にて開催された公募論文で「世界貿易の趨勢と機械貿易の将来」と題する論文で第一位を受章。以後、高畑は直接に海部八郎を教育し、自分が育ったロンドンに赴任させ主に船舶を学ばせる。海部八郎は、その後ニューヨークに移駐し、徐々に頭角を現す。日商の造船は、船舶輸出の2割前後を取扱い、「日商の機械本部は船舶輸出で日本一の実績を誇り、日本の造船の歴史は、そのまま日商船舶の歴史といっても過言ではない」(『日本の商社・日商岩井』毎日新聞社刊)との評価を受けた。これは海部八郎の功績であり、海部は約450万トン、日本の7年分の建造量を受注し、日本を世界最大の造船国に導いたともいわれた。

またボーイング社の代理店として航空機の売り込みを図り、全日空、日本航空、南西航空向けに大量に契約。自衛隊向けのFX商戦も次から次へと納入し、日本の空も独占してしまうほどの勢いであった。

ただ、海部八郎は、昭和54(1979)年のダグラス・グラマン事件で外為法違反、議院証言法違反で逮捕される。判決で裁判長は、「戦後の経済発展に総合商社が寄与し、先兵として身命を賭して努力した海部被告の功績はそれなりに評価できる」と執行猶予の理由を説明した。拘置所には、高畑の妻・千代子(二代目鈴木岩治郎の長女)からバラの花が差し入れられたという。

また高畑は、帝人の人絹(天然素材)から合繊繊維(高分子化学)への対応に対しても尽力する。帝人はイギリスのICIが特許を持つテリレンの技術導入に社運を賭けていた。高畑はロンドン時代からのICIおよび同社社長との眤懇の関係をフル活用して、テリレンの技術導入の交渉に自ら乗り出し、東レと帝人との「半々の分権」に成功し、帝人はテトロンの商品名で生産を開始し復活を遂げる。尚、この技術導入には日商の中央毛織も研究に協力した。鈴木商店・日商は、戦前の人造絹糸、戦後の化合繊革命の両方に関わっていたということになる。

日商(現・双日)の歴史⑧

  • アルゼンチン向けに船積中の電車
  • 茨城東海原子力発電所
  • (上)ボーイング727型ジェット旅客機

    (下)マクダネル・ダグラス社のファントムF4型戦闘機

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