日商(現・双日)の歴史③

今に伝わるタタ物語

高畑・永井共に、鈴木の轍は踏まぬこと、堅実第一主義であり、投機的な思惑を決して行わないと誓っていた。単なるコミッション・マーチャントであっても永続性のある商品を扱い、数量を増せば確実に利益が上げられる商品が重要と認識し、そういう意味で日商の中心となる商売はタタ銑鉄の輸入以外にはないと考えていた。

鈴木商店とタタとの取引は、大正7(1918)年の第一次大戦中に遡る。ロンドンでは、高畑と川崎造船社長の松方幸次郎が、大戦の戦乱をみるにつけ、日本は鉄源を抑えることが急務だと痛感し、タタの銑鉄に着目した。そして鈴木商店は、神戸製鋼所向けと川崎造船所向けに計12万トン、引取期間3年間の日本向け長期輸入契約を締結した。

しかしその後、英国政府が鉄不足によりインドから英国向け以外の輸出を禁じ、日本への供給契約が頓挫してしまった。その後、大戦が終結すると銑鉄価格は暴落。タタは禁輸令が解けたため、暴落前の契約価格にて引き取りを求めたが、鈴木商店は、必要な時に輸出できなかったとして、市況価格での引き取りを主張。双方妥協点が見出せず、当時の第一銀行頭取であった渋沢栄一が調停に乗り出し、双方損失(現在の価値で50億円以上)を被りながらも合意に達し、鈴木商店は全量引き取りを行った。その後、タタの信頼を得て同社の銑鉄の日本および香港、中国大陸における一手販売権を獲得している。

鈴木商店破綻時にボンベイ支店長だった多賀二夫はそのままボンベイにとどまり、他商社がタタの銑鉄輸出の代理権を得ようと攻勢をかける中、銑鉄の販売代理権を鈴木商店から日商に引き継ぐことに成功している。これもタタが鈴木商店に対して恩義を感じていたためである。この時内地で代理権継承に尽力したのが鈴木商店鉄材部の責任者であった楓英吉である。

後年、タタグループのJ.R.Dタタ元会長は、「今日世界で何人がかかる信義に基づく取引をするだろうか。タタはその歴史上、日商には多大なる恩義がある」とタタグループ、そして日本の外交官、銀行マンなどの前でスピーチしたという。このエピソードは現在の双日にも語り継がれている。なお、タタスチールのある旗艦製鉄所にあるインド・ジャムシェドプールにおいて、昭和58(1983)年より双日ゴルフトーナメントを開催している。

昭和29(1954)年には、タタ製鉄所の本拠地・ジャムシェドプールでは創立50年祭が開催され、日商の高畑会長(当時)もタタから招かれ参加している。

またアメリカのカリフォルニア・リッチフィールド社の石油の輸入も大きな柱となった。鈴木商店の石油の取扱いは主に旭石油にて行い、同社は主に中近東産を取り扱っていた。第一次世界大戦後、アメリカではカリフォルニアの石油生産が拡大、大手は他社に抑えられていたが、鈴木商店雑貨部の吉田秀太郎は、比較的小規模のリッチフィールド社と交渉し、代理店契約の段階まで来たものの、鈴木商店破綻という事態に直面した。吉田は代理店契約を一時的に神戸製鋼所に寄託し、その後、後継会社に移そうと考えた。この契約に援助したのが、金子直吉に才覚を見出された依岡省輔であった。日商が設立されるとこの代理権は日商に継承された。日商は、その直後に行われた海軍向けの重油の入札を大量に落札し、海軍をはじめ日本石油、小倉石油、早山石油、旭石油、出光興産などに原油、重油、潤滑油納入で進出する足掛かりを作った。

この日商の揺籃期を支えたタタ銑鉄取引とリッチフィールド社の石油取引の責任者であった楓英吉と吉田秀太郎は、昭和7(1932)年に、設立後初の生え抜き取締役として選任されている。

日商(現・双日)の歴史④

  • R・D・タタ
  • 1954年、タタ製鉄所の本拠地ジャムシェトプールでは創立50年祭を開催した

    日商の会長高畑誠一もタタから招かれて参席した

  • リッチフィールド社の石油精製工場

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