日本工具製作(現・日工)の歴史⑦

従来の工具類の製造から建設機械の製造へと大きく舵を切る

終戦翌年の昭和21(1946)年10月、明石商工会議所の再建がなり、矢野松三郎は推されて会頭に就任した。その後、商工会議所の建物新築のため昭和25(1950)年6月28日に株式会社明石商工会館が設立されると、矢野は同社の社長にも就任した。

さらに、矢野は昭和22(1947)年に神戸地方裁判所明石支部民事一般商事調停委員および司法委員に選任され、昭和23(1948)年2月27日には明石市自治体警察の公安委員長にも就任し、地域のためにも力を尽くした。

昭和24(1949)年2月19日、明石駅前の自由市場で大火が発生した。この市場は戦後のいわゆる"闇市(やみいち)"であったが、公安委員長の矢野は犯罪の温床ともなり街の美観を損なう自由市場の再建を認めず、焼け跡への出店を厳に禁止した。このことが、後の明石駅前の整然とした街並につながっていく。

昭和24(1949)年5月11日、GHQ(連合国軍総司令部)により東京、大阪、名古屋の各証券取引所の再開が許可されると日本工具製作は大阪証券取引所に上場を果たし、6月18日には神戸証券取引所にも上場した。

同年8月13日、同社は創立30周年を先人の築いた業績を顧みるとともに同社再建後の生産増強に挑む好機と捉え、記念式典を神戸大学兵庫師範学校女子附属小学校の講堂で来賓役100名、遺族40名、従業員400名あわせて500余名の出席を得て盛大に開催した。

昭和25(1950)年上期には、いわゆる"見返り資金"(*)による電源工事を契機として工具類の需要が急増した。都市の失業対策工事や地方における道路・治水などの公共工事も各地で着工され、同社の製品全般にわたって注文が激増した。

(*)第二次世界大戦後、アメリカの対日援助物資のドル価額に見合う円資金を特別に積み立て、通貨の安定と経済再建を主な目的として運用した財政資金。

さらに、昭和25(1950)年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、業界は一気に活気を帯びた。同社は同年8月に戦争特需第一陣の発注を受け、伸鉄部門は二部制を三部制の24時間体制に切り替えるなど、全社あげて指定納期完了に向けて努力を重ねた。この特需景気により同社の生産高は月を重ねる毎に新記録を打ち立てた。

サンフランシスコ講和条約発効直後の昭和27(1952)年6月9日、同社にフランス領インドシナ向けショベル5万(ちょう)の大量注文があった。また、同社は昭和26(1951)年12月よりかねて研究中の横転式運搬車やウインチ、コンクリートミキサなどの建設機械の製造に着手したが、早くも翌昭和27(1952)年6月14日には北海道網走から鍋トロ(ダンプトロッコ:土砂や鉱石を積載するバケットを搭載したトロッコ)135台の注文があった。

これは同社にとって初の建設機械の受注であり、8月の納期に向けて2カ月間昼夜兼行で製造に当たり完納した。続いて、九州の筑後川からトロ車輪の注文があった。同社は、この時期にこれら建設機械の製造に大いに自信を深めた。

昭和28(1953)年1月には第三工場でも建設機械の製造を開始した。横転式運搬車、ウインチ、コンクリートミキサの製造は順調に進み、販路も次第に拡大していった。そこで、本格的増産に対処するため第四工場を整備して、そこに鋳造工場を移設し、第三工場内に工作・製缶工場を新設することになった。

昭和28(1953)年7月27日、朝鮮戦争の休戦協定が成立し特需による景気は終焉を迎えた。同社はこの情勢下において輸出に力を注ぐとともに、従来の工具類の製造から建設機械の製造へと本格的に移行することを企図する。昭和28(1953)年4月16日に開催された増資決定(資本金4,000万円 → 1億円)に関する説明会において矢野社長は次のように語っている。

「日本工具製作と申しますとマシンツールのメーカーとよく間違えられるのでありますが、私の方は開発用の土工具即ちスコップ、ショベル、ツルハシ、ハンマーその他の土工用具並びに開発用の機械器具類を製造いたしておりますことを予めご承知願っておきます。‥‥」

この頃、わが国は高度経済成長時代を迎え、同社の業績も順調に推移していた。このような状況下の昭和31(1956)年4月、かねてより開発中のバッチャープラント(コンクリートプラント)とスミス式傾胴ミキサを完成した。バッチャープラントは全ての操作が全自動でセメントと骨材(砂、砂利、砕石)、水などを所定の配合比どおりに計量してこんれんする機械設備で、後年アスファルトプラントとともに同社の屋台骨を支える主力製品となっていく。

このころから、同社の建設機械はその真価が次第に認められるようになり注文が増加し、既存の設備では不十分になってきたことから昭和32(1957)年5月、第三工場敷地に建設機械工場を新設した。昭和33(1958)年3月、同社は資本金を2億円に増資し、この増資を契機として、同社は従来の工具類から建設機械の製造へと大きく舵を切っていくことになる。なお、この増資に関する当時の「経済春秋レポート」には次のように記されている。

「‥‥当社はショベル、スコップなど土建農機具のトップメーカーである。全国の40%を生産する。ところが近年コンクリートミキサやウインチという建設機械に乗り出し、昨年5月新工場を完成してこの方も最大のメーカーとなった。ショベル、スコップの販売地盤がこの急速な発展を促したのだ。前11期(1957年11月期)の売上を部門別に見ると、土農機具が6割、建設機械が3割、その他1割という振合(ふりあ)いだ。まだ主力は土農具にあるし、収益面で見ても土農機具部門はさすがに安定しているが、しかし今後の発展力は建設機械部門に大きく宿っている。‥‥」

戦後、わが国の経済・産業復興のため道路整備の機運が急速に高まり、政府は本格的に道路整備を開始した。昭和20(1945)年に日本道路建設業協会が、昭和22(1947)年に日本道路協会が設立され、昭和23(1948)年には建設省が発足した。

米軍基地やその周辺の道路がすべてアスファルト舗装を基調として整備され、国内においてもアスファルト舗装が注目されるようになり、昭和27(1952)年には有料道路制度が創設され、昭和28(1953)年7月には揮発油税収入が道路整備の特定財源に充てられることとなった。

翌昭和29(1954)年度から「第一次道路整備5箇年計画」がスタートし、昭和31(1956)年3月に日本道路公団が設立されると、いよいよ有料道路計画が本格化するとともに、政府がアメリカよりワトキンス調査団を招き全国高速道路網建設に関するアドバイスを受けるなど、これら一連の動きから、その後の道路がアスファルト舗装主体に建設されることは明らかであった。

同社はこの時期に関係者が協議を重ねるとともに調査・研究を行った結果、社運を()してアスファルトプラントの製造に着手することとなり昭和33(1958)年10月に試作機を完成した。これを基に建設省や舗装業関係などの意見や助言を取り入れ翌昭和34(1959)年3月10月に第1号機が完成した。

昭和35(1960)年3月、同社は建設省の指導により国産初の自動制御アスファルトプラントを開発し、近畿地方建設局大阪国道工事事務所、姫路工事事務所などに納入し、着々と実績を積み重ねながら、その後も研究・改良に努めて業界における確固たる地位を確立していった。

日本工具製作(現・日工)の歴史⑧

  • バッチャープラント(昭和40年代)
  • アスファルトプラント(昭和40年代) 
  • ダンプトロッコ(鍋トロ)

TOP