日本油脂(現・日油)の歴史②

金子直吉の企業的創意と久保田四郎の研究成果が結びつく

未だわが国に硬化油製造の技術が確立されていない明治後期、鈴木商店は北海道において悪臭がひどいためほとんど放棄されていた魚油(いわし油、にしん油)を集荷し、石油缶詰めにして神戸市・(かる)()(じま)の約4,000坪の土地に建設した魚油倉庫に輸送し、直火の釜で加熱し酸性白土を加えるという方法で脱色して(おり)を取り除き、精製油としてイリス商会を通じて同商会の本国であるドイツに輸出した。

鈴木商店の精油法は美濃紙の袋をたくさん並べた木枠をレンガ建ての"むろ"の中に多数置いて、職工が酸性白土の入った油を油差しで注いで回り、自然の重力で濾過(ろか)するという大阪・八尾あたりの菜種油の白絞法がそのまま応用されていた。

このような原始的な方法による精製魚油であったが、明治末期になるとヨーロッパから注文が殺到し、鈴木商店の輸出量は増加する一方であった。当時、わが国は日韓併合条約の調印(明治43年8月)によって大韓帝国を併合し朝鮮総督府の統治下に置いたことから、鈴木商店は朝鮮水域の魚油を大量に集荷することにより増大する需要に対応した。

鈴木商店の金子直吉は、魚油をイリス商会以外に販売すると同商会が「目を丸くして怒る」ことから、「わが国では敬遠されている臭い魚油を外国では一体何に使用するのだろうか? 魚油に何らかの加工を施した上で、高く売って儲けているのではないだろうか?」と常々不審に思っていた。

そこで金子は明治45(1912)年、東京帝国大学工学部応用化学科出身で油脂加工の研究を志していた新入社員の久保田四郎(*) (久保田の卒業論文は「蛹油(さなぎゆ)中の不鹸化物の成分」という油脂に関する研究であった)に命じて油脂加工の研究に従事させた。

(*)後に鈴木商店製油所兵庫工場長、スタンダード油脂取締役、合同油脂グリセリン常務取締役、(第一次)日本油脂常務取締役・専務取締役・副社長、(第二次)日本油脂顧問等の要職を歴任。日本油脂に至るまでの一連の紆余曲折の統合・合併に際し経営陣としての手腕を発揮するとともに、油脂事業の研究者としても数多くの論文を残している。

久保田の研究の第一弾は、抹香(まっこう)(くじら)脳油(のうゆ)を分解して魚臘(ぎょろう)を採取することであった。その研究の過程で、魚臘から製造されたロウソクは高価で、西洋では高貴な宴会には必ずこれを用いていること、さらに、臘を除いた後の脳油は遠心分離器を回転させるのに必要な機械油となり、英国から"南洋の鯨脳油"と称して大変高い値段でわが国に売り込まれていることが分かった。

その後、金子は久保田より「西洋ではイワシやニシンの油に水素を添加して(ろう)の状態に変化させる発明があり、これを石鹸にしたりロウソクにしたり、その副産物としてグリセリン、オレイン油などをとって大変金を儲けている」という報告を受けた。つまり、ヨーロッパではわが国より一足先に油脂硬化の工業化が始まっていたのである。

これを聞いた金子は、かねて不審におもっていたイリス商会の態度が読めたので、久保田に「是非この方面の研究を進めて、安い魚油を外国に輸出せず、日本でも石鹸やグリセリンのようなものに精製して輸出するように」と研究を命じた。金子は鈴木商店の経営を通じて数多くの製造業を立ち上げたが、わが国の硬化油工業も実にこの金子の慧眼によって発祥したといっても過言ではない。

金子から硬化油の研究を命じられた久保田は、鈴木商店の魚油倉庫(神戸市・(かる)()(じま))の片隅に設けられたわずか2~3坪ほどの小さな研究室で1年余り研究を続けたが、これがやがて硬化油工業へと進展していく最初の核となった。

初期の硬化油事業に従事した長郷幸治は次のように語っている。

「兵庫工場の建設(大正4年)は、金子直吉さんの魚油加工輸出に対する企業的創意、情熱と若い久保田さんの単独の研究の成果が結びついて生まれた結晶だ。私は学生時代に久保田さんを訪れて・・・・ 研究見本を見せて貰って、感激したことは今も忘れることができません」

日本油脂(現・日油)の歴史③

  • 鈴木商店魚油工場の人工帖(にんくじょう) 
  • 初期のいわし圧搾機(八戸)
  • 鈴木商店が博覧会に出品した魚油の見本   

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