日本セルロイド人造絹糸(現・ダイセル)設立の歴史①

ほぼ時を同じくして、日本セルロイド人造絹糸と堺セルロイドが創業

セルロイド、それは世界最初の人工プラスチック(合成樹脂)である。1865年にイギリス人のA・パークスが硝酸セルロースと樟脳の固溶体について特許を取得。その後1868年にアメリカ人のJ・W・ハイヤットがセルロイドを発明し、自らのセルロイド製造会社において企業化した。当時欧米で大流行していたビリヤードの象牙球が高価だったため、あるビリヤードボール製造業者が安価な代替品の開発を懸賞金付きで募集し、ハイヤットがこれに応募したことがきっかけであった。

日本においては、明治10(1877)年にドイツから神戸の外国人居留地22番のフランス商館に赤色板状の一片のセルロイド生地見本が初めて輸入され、大阪の西川伊兵衛が買い取った。これが、わが国におけるセルロイド史の第1ページとなった。明治18(1885)年には、横浜ドイツ商館にドイツ製セルロイド「擬珊瑚珠」が着荷し、この擬珊瑚珠は「ゴム球」または「あずま球」と称され、(くし)(かんざし)()(がけ)などとしての需要を喚起した。ここにおいて特筆すべきことは、わが国セルロイド業の発展はその出発点が家内工業的加工業からスタートしたということであり、生地そのものの製造はその後に起った。

明治28(1895)に日清戦争が終結。下関条約が締結され台湾が日本の領土になると、明治36(1903)年頃にはセルロイドの原料である樟脳(クスノキから抽出する)の世界の需要の90%を台湾が供給するようになった。一方、これに相応ずるかのように日本のセルロイドの輸入もまた増加傾向にあったことから、セルロイド製造の国産化は自然の流れであったといえよう。

明治37(1904)年には、東京高等工業学校出身の元海軍火薬技師・田中敬信がアメリカに渡り、セルロイド事業の調査を行った上で機械を購入し、東京小石川に小規模なセルロイド工場を設立した。しかし、それは試験的な範囲を超えることがなく、つくづく大資本導入の必要性を痛感した田中は、財界の有力者にセルロイド事業の有望なことを説き、賛同援助を懇請した。その結果、明治39(1906)年には三井家重役・益田孝を動かし、三井家から4重役に加えて団琢磨ら、政界からは井上馨、若槻礼次郎大蔵次官らが田中の工場を視察した。ここにセルロイド事業に対する政財界の関心は大いに高まり、三井家を中心とする事業発足の機運が醸成されていった。

明治41(1908)年7月30日、「堺セルロイド」の創立総会が三井同族会内で開催され、会長に三井養之助、専務取締役に窪田四郎が就任し、工場敷地は水質に優れた大和川河畔の大阪府堺市七道(約4万2,600坪)に決定。工場は明治43(1910)年に竣工し、翌明治44(1911)年には試作品を出すまでになったが、技術の未熟から製品は売品とするには遥かに遠く、アメリカから招へいされた技師・アクステルは苦境に立たされた。このころ、団琢磨が三井家の事業を主催することとなり、同社は三井養之助が社長となり、元・農商務省工商局長の森田茂吉が専務に就任した。結局、アクステルは見切りをつけられて解雇され、日本人技師による自社技術によって逆境を切り抜けることとなった。

このころ、ロンドンの資本家達からわが国にセルロイド工業を起こさんがために派遣されたアムトルから英語教育を受けていた岩井商店勤務の根岸吉太郎が、アムトルからセルロイド事業化の計画を聞き、それを店主・岩井勝次郎に伝える。この話しを聞いた岩井は、セルロイド工業こそが将来の日本を繁栄させる有力な方法であろうからこの機を逸すべからずと決意し、正金銀行の川島忠之助、日本郵船社長・近藤廉平に相談をもちかけ、事業の具体化について話を進めていった。

当時、時を同じくしてもう一つの計画が持ち上がっていた。その中心人物は元・台湾総督府専売局長で鈴木商店に入っていた松田茂太郎である。松田も当時の世情に鑑み、また自身の専売局長であった当時の経験を活かし、外資と協調してセルロイド工場を国内に建設しようとの考えを持ち、友人の関西学院教授・三宅佳作と相談した。

その後、会社創立に向けて兵庫県の網干(あぼし)町に仮事務所を開設したが、ロンドンの銀行の破綻により外資の援助が得られなくなり、計画は頓挫せざるを得なくなった。そこで、松田は日本人のみの協力を求めるべく東京の三菱(岩崎家)、大阪の岩井商店、神戸の鈴木商店にこの計画に参加するよう説いてまわった結果、賛同を得ることに成功する。

これにより、同じ網干の地に工場建設を進めることとなり、明治41(1908)年3月に「日本セルロイド人造絹糸」が兵庫県揖保(いぼ)網干(あぼし)町(現・姫路市網干区新在家)(約8万坪)に設立された。社長には三菱を代表する近藤廉平が、専務には近藤の補佐役たる田中常徳と松田茂太郎が、取締役には三菱から岩崎豊彌が、岩井商店から岩井勝次郎が就任した。

※以上は、「大日本セルロイド株式會社史」による日本セルロイド人造絹糸の設立経緯であるが、当記念館の「鈴木商店の歴史」、「企業特集」、「地域特集(米沢)」にてご紹介している「帝人設立の歴史①」ではこの設立の経緯が次のとおりやや異なっている。これは、「帝人設立の歴史」が帝人の社史「一粒の麦」を基にまとめたものであり、日本セルロイド人造絹糸の設立経緯の(くだり)については同社史が、金子直吉が昭和13(1938)年に記述した「人絹と自分」に依っていることによる。

■「帝人設立の歴史①」における日本セルロイド人造絹糸の設立経緯
「金子直吉は、我が国樟脳界の先駆者で台湾樟脳局神戸出張所の松田茂太郎が退官して郷里の宮崎に帰ろうとしていたところを鈴木商店に入社させ、『旅費を出してやるから、西洋に行ってセルロイドと人絹を研究しろ』と欧米に出張させている。そして金子はじっこんの台湾総督府民政局長・後藤新平に「松田の研究ができあがったら、樟脳を売ってくれ」と話をつけていた。一方、東京でのセルロイドの大半を取扱っていた岩井商店は、ロンドンのブリティッシュ・ザイロナイト社から、台湾樟脳を原料としたセルロイドの事業化の話が持ち込まれていた。岩井商店の岩井勝次郎は台湾総督府に樟脳の払い下げを相談すると、『もう神戸の松田茂太郎と約束している』との回答を受ける。そして、鈴木商店もこの合弁話に乗り出すこととなった。外資との合弁となると有能な経営者が必要となり、金子は、日本郵船の社長・近藤廉平に社長就任を打診。その後、外資との合弁は取り止めとなり、三菱・鈴木・岩井の出資で明治41(1908)年に『日本セルロイド人造絹糸』が兵庫県揖保郡網干町に設立された。」

日本セルロイド人造絹糸は、設立当初はその社名の通りセルロイドとともに人造絹糸(人絹)の製造を目的とし、鈴木商店の金子直吉の強い希望により定款にもその旨が書き込まれたが、当時硝化綿による人絹製造を実現するためにはなお相当の研究を重ねる必要があり、人絹にまで手を付けることには相当に無理があった。

その後大正4(1915)年に、鈴木商店傘下の(あずま)レザーがヴィスコース法による人絹製造の事業化に踏み切ることとなり、これが後に帝国人造絹糸(現・帝人)の設立(大正7年6月)につながっていくことになる。こうなれば、日本セルロイド人造絹糸としては人絹の製造にまで手を伸ばす必要はなくなり、その方面への触手はいつとはなく立消えの形となった。

日本セルロイド人造絹糸(現・ダイセル)設立の歴史②

  • 「ダイセル異人館」内のセルロイド商品展示コーナー
  • 日本セルロイド人造絹糸創業当時の1号ボイラー
  • 日本セルロイド人造絹糸創業当時(明治42年)

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